《われらが殺人黄金時代!》ってナンダよ
リチャード・オールティック(1915-2008)の『ヴィクトリア朝の緋色の研究』(1973)を読む。

『北米探偵小説論21』のリサーチ段階で探しあてて当然の文献であった。もしかして《われらが殺人黄金時代!》なんていうコシマキにのけぞって敬遠したのかも……。
この本に取り組んでいたら、同書の「C1 殺人カタログの世紀」(949-956p)は、もう少し重みのある論述になったろうし、ひいては「C 殺人の現象学」の構成ももっと緊密になったと思えるが……。
世に多いミステリ・フォビアの心象を深く分析したことはないが、大きくいって二つあるようだ。一は、単純なパズル嫌い。そして、殺人を「愉しむ」趣味への嫌悪(こちらが主要か)。オールティックの労作は、こちらのほうに抵触する叙述にかなり傾いているし、またその側面にのみ反応して悦ぶアホな研究家もいるので、取り扱いには細心の注意を要する。
殺人は加害者と被害者が主要にかかわる厳然たる一回性の事実である。ーーといった枠組みは前提にしておかねばならない。そこを跳びこしてはしゃぎまわる「殺人カタログ学」は、(まったく杓子定規に判定するしかないのだが)ある種の道徳的退廃と人間性の摩滅であるほかない。世の中には、殺人ミステリの大好きな者とそれを侮蔑してやまない者が分極(後者が「健全」というわけではない)しているわけだ。
オールティックの本は、ヴィクトリア朝に異様に突出した「殺人嗜好」の歴史的な意味を抽出している。ブルジョワ市民社会の確立と帝国主義の覇権争いと。そこに並走してイギリス近代文学は多くの作品を多産していく。それらは、後の評価として《偉大なる伝統》といった強固な自国中心主義史観を跡づけることにもなった。オールティックは、その下層に、人間性の下卑た「集合意識」として「殺人嗜好」が大量によどんで沸騰していたことに注目する。
偉大なる近代文学と下劣なる殺人嗜好との混在。
つまりーー殺人には、当事者以外の観点と好奇心とが不可避についてまわる。人は「自分とは関係のない」殺人についてなら、おそらく無尽蔵の興味に惹かれる。他人の不幸を「愉しむ」ことは人間という種の本性であり、古来から変わらない。災厄の極点である殺人はその「娯楽度」においても最高の事件なのだ。
近代市民社会の成立は、さまざまなる進歩と同時に、こうした人間性暗部にどろりと流れる「愉しみ」の様式を決定的に「進化」させた。殺人という事象から、それに関する事件情報を分離させた。殺人情報の伝播するスピード、そして範囲が飛躍して広まった。そして、時空間の拡大によって、拡散する殺人「情報」はそれ自体の「力」をおびていく。

ベンヤミンが「複製技術の時代における芸術作品」で展開したテーゼを反転させるなら、殺人行為のオーラが殺人を報道するという間接的な行程のほうへ「移動」していった、といえよう。殺人を話題にするといった「日常性」にオーラがまといつく、のである。オールティックは、そうした不可思議な移行を、ヴィクトリア朝市民社会の一断面として丁寧に拾いあげていく。その分析は、同時に、探偵小説がどのようなプロセスをもって確立していったかうまく説明してくれる。
殺人小説は、トマス・ド・クィンシーやロバート・ブラウニングの前駆的な作品に胎動していたともいえる。しかし、それらは、孤立的な事象として以外、注目されてこなかった。オールティックは、ヴィクトリア朝市民小説がいかに多くの殺人場面、殺人のテーマに満ちていたかに注目をうながす。そしてセンセーション・ノヴェルと称された一時期の短い流行についても強調する。そこから、シャーロック・ホームズ物語の流行まで、ほとんど一直線なのだ。
オールティックは本来はヴィクトリア朝文化の研究家。アメリカ人なのでイギリス文明への距離をおいた辛辣さを行使できる。『ヴィクトリア朝の緋色の研究』は、裁判記録の渉猟から成り立つもので、研究者としては余技にあたるものかもしれない。類書として『二つの死闘』(1986)があるが、これは新聞記事(著者が歴史資料として信をおけるものではないと限定する文献)の引用によったもの。ヴィクトリア朝市民のセンセーション好きがより拡大された記述となっている。

本筋の研究書としては、『ヴィクトリア朝の人と思想』(1973)、『ロンドンの見世物』(1978)がある。こちらは、もう少し時間をかけて勉強したい。邦訳書は四点しかないようだ。
『Browning’s Roman Murder Story:A Reading of The Ring & The Book』(1968)も読みたいのだが、これは先のことになりそう。




以下は個人的な覚書。
再考、というか、要改稿のような箇所。
『北米探偵小説論21』「A・2・1 英吉利斯探偵小説の黄金」(114-165p)
マッケン、スティーヴンソン、M・P・シール、ブラックウッド、チェスタトン、コンラッドなどの流れ。
別巻の『快楽の仏蘭西探偵小説』「Ⅱ・4 誰が駒鳥を生き返らせるか?」(226-267p)
ロバート・バー、ベントリー、ノックス、フィルポッツ、クロフツ、バークリー(アイルズ)、イネスなどの流れ。
これら二箇所は、前記の「C 殺人の現象学」全体もふくめて、より整備されたものにしたいーーということ。
まあ、考えておくだけなら、諸害はないだろうし。
上にちょっといいかけた「ベンヤミン・テーゼの反転」という話題にしても、何かずっともやもやとアタマの隅に浮かんでは消え消えては浮かびかける案配で……。これは、涙香を追いかけたさいにも灯りかけた「光明」なんだが。
ーースキャンダル記事(殺人報道でもいい)の断片にこそアウラ(というより怨念みたいな負の要素)が宿り、「芸術」形式はかぎりなく無力・無用のものではないのか。
フェイクがリアルを凌駕し、テクノロジーがますます事態を加速させる現在。
この先には、何が視えてくるのか。