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中世探偵小説の発見Ⅱ

中世探偵小説の発見Ⅱ

Johan Huizinga(1872-1945)
 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)については、『北米探偵小説論』のなかで言及している。282p
 E・S・ガードナーのペリー・メイスン・シリーズをあつかった部分。論述の便宜で借用しただけで、いわゆるミステリ評論の悪しき「権威主義」をふりまいているにすぎない。『ホモ・ルーデンス』の真髄を取りだして、アメリカ法廷サスペンスの先駆的作品とのシンクロニシティに光をあてるところまで達していない。


 
 ヘーゲルとマルクスの師弟は、ともに、闘争と労働こそが人間を創るという観念を展開した。ホイジンガの基本姿勢はその対極にある。ーー遊びが人間を創る。
 その思想のせいなのかどうか、ホイジンガの文体は、ヘーゲルやマルクスのような絶対の気合いには欠けている。どこか曖昧で断言にも「遊び」がふくまれている。誤解の許容度が高い。闘争にしろ、労働にしろ、ホイジンガは、それらに内包される遊びの領域に注意をむける。文章の完結度を第一義としない。断言命題を好む読者には物足らず、「遊ばれている」ような不燃焼にとらわれるかもしれない。
 彼が集大成ともいえるこの大著を記したのは、ナチスの侵略前夜にあったオランダにおいてだった。
 ホイジンガのもうひとつの主著『中世の秋』(1919)は、不思議な感触の本だ。著者は言葉では、強く「中世の暗黒」を暴きたて論難する。その一方で、どっぷりと中世の諸事象につかりきった叙述は、遠近法をもたない中世細密画の世界さながらに、そこに捕らわれることの「至福」をひそかに伝えてやまないのだ。それは「中世に遊ぶ」ことの、自身による見事な実践だったようにみえる。


 
 歴史が無慈悲な逆行を歯止めなく滑りおちていく現在ーー。
 テクノロジーが支配する「シン中世」などといった定義が出てきても不思議はない。
 いまホイジンガと「遊ぶ」余裕があるのかーー。わたしにとっては微妙な問題だ。ヘーゲルにしろマルクスにしろ、またその名だたる後継者たちにしろ、生真面目さにおいては並ぶ者がいない。必要な(と思われる)処方を何よりも優先しようとする。
 
 ホイジンガが後期に刊行した文明論といわれる書物、『明日の影のなかに』(1935)、死後出版の『汚された世界』(1945)も、わたしには面白くない。すでに無用だと思わせる。ホイジンガは『エラスムス 宗教改革の時代』(1924)において「エラスムスは、あの頑健な一六世紀にたいして充分には頑強でなかった。時代に必要だったのは、ルターやカルヴァンの力と熱、徹底した一貫性、真剣さ、率直さだった。エラスムスのビロードのような柔軟さではなかった」と結論している。
 これは、後年のホイジンガ自身への予言的な自画像ですらあった、とも読めてしまうのだが。あの頑強なファシズムの二〇世紀中半において……。
 そして、今は?
 いたるところで、シン帝国主義への言論的投機(二束三文の)が、地滑りのように起こってきている。暗黒の世紀に『痴愚神礼讃』の機知と諧謔で応えたエラスムスのような存在は、また二〇世紀においてそれに準じようと試みたホイジンガのような言論は、朽ち果てた「遺産」にすぎないのか。
 
 

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