『黄色い部屋の謎』謎・続
黄色い部屋のどこが黄色いのか
第七章にみる 各翻訳の比較 (傍点部をゴチックに)
⑫『黄色い部屋の謎』平岡敦訳 2020.6 創元推理文庫
ルルタビーユは顔と手を壁に近づけ、下から上に丹念に調べていった。壁は一面、分厚い煉瓦造りだった。黄色い壁紙の表面を、軽やかな指づかいで撫でまわす。ひととおり壁を見終えると、今度は天井の番だった。87p
⑪『黄色い部屋の秘密』高野優監訳 2015 ハヤカワ文庫
その間、ルールタビーユは、壁の低い部分の腰壁に手と鼻を近づけて、足元から上に向かって事細かに調べていた。腰壁は厚いレンガ作りになっていた。それを調べおわると、今度はその腰壁から上の、黄色い壁紙が貼られたところへと移っていった。壁紙の上から指の腹でなぞりながら、手の感触でつぶさに見てまわる。107p
⑩『黄色い部屋の謎』長島良三訳 1998 集英社文庫
ルールタビーユの鼻と手は壁づたいにしだいにうえへむかった。壁はぜんぶ厚い煉瓦造りだった。敏捷な指先で黄色い壁紙を撫でまわして壁を調べ終わると、彼は天井にとりかかった。天井に手が届くように化粧テーブルにのせた椅子にのぼり、その即席の脚立を引きずって部屋中をまわった。81p
⑨『黄色い部屋の謎』吉田映子訳 1979 旺文社文庫
”全面が厚い煉瓦造りの”壁に沿って、ルルタビーユは鼻で嗅ぎ、手で触れていく。壁を調べ、黄色い壁紙を、すばやい指でくまなく探り、化粧台に椅子をのせた即席の脚立を、あちこち移動させながらよじのぼり、ついに天井まで到達した。74p
⑦『黄色い部屋の秘密』木村庄三郎訳 1962 角川文庫
つづいてルールタビーユの鼻と手とは、あちらこちらの壁を伝ってのぼって行った。《壁はいたるところ厚い煉瓦でできていた》それがすむと、黄色い壁紙の表面をくまなく器用な指先で撫でまわし、それから化粧台に椅子をのせてその上に立った。そしてこのうまくこしらえた脚立を部屋じゅう移動させて天井をしらべ、[…]78p
⑥『黄色い部屋の秘密』石川湧訳 1962 東都書房
ルールタビーユの鼻と両手は、壁に沿ってあがっていった。壁はどこも厚い煉瓦造りだった。壁を調べおわって、かれはその敏捷な指を黄色い壁紙の表面全体にすべらし、こうして天井までとどいた。化粧台の上に椅子をのせ、その思いつきの床几を室内ですべらせたのである。34p
⑤『黄色い部屋の謎』宮崎嶺雄訳 1965 創元推理文庫
ルールタビーユの鼻先と両手は、壁の表面を這い登り始めた。部屋の壁はどの部分も、厚い煉瓦造りになっていた。壁面に沿って、黄色い壁紙の全表面に素早く指を滑らせながら、ずうっと天井ぎわまで調べ終わり[…]100p
④『黄色い部屋』日影丈吉訳 1956 早川書房 HPB
ルウルタビイユの鼻と手は壁を這いまわつた。壁はどこも厚い煉瓦造りだ。壁がすみ、黄色い壁紙の全表面を、そのよく動く指で撫で終えると、化粧台へ椅子をのつけてその上に登り、この便利な脚立を部屋中に移動させて天井を探る。63p
③『黄色い部屋の秘密』堀口大学訳 1959 新潮文庫
ルルタビルの鼻と手が四つの壁を伝わって、上がったり下がったりした、壁は何処も同じく厚い煉瓦で出来ていた。壁の調べが終り、黄色い壁紙の全部に器用な指を動かし、化粧台に乗せた椅子の上に立ちあがって、この暢気な脚立を部屋中すべらせ、天井を探り終り、[…]83p
②『黄色い部屋の謎』水谷準 1953 東京創元社
次に、ルレタビーユは壁を這い廻りはじめた。壁は全部厚い煉瓦造りである。壁がすむと、次には化粧台へ椅子をのつけてその上に登り、届く限りの天井を触ってみる。57p
①『黄色の部屋』愛智博訳 1921 金剛堂
ルレタビーユの鼻と手が、壁の上を這ひ出した、その壁は皆厚い煉瓦造りであつた、彼が壁を調べ終つて、黄色の壁紙の全面にさらさらと指を走らせて、化粧台の上に椅子を積んで[…]90p
戸外から入っていくと、サフラン色(鬱金色)の四壁。実験室と玄関はタイル張り。その部屋の床だけが板張りで、黄色いゴザが敷かれている。
黄色い部屋の由来は、この壁と床(床板ではなく、敷物)の色彩にある。壁にくっきりと残された血染めの手型の効果だ。だが、壁の色についてはともかく、壁の素材はどうなっているのか。作者の描写は何とも微妙なところがある。全面煉瓦造りであるのに、黄色い壁紙貼り。煉瓦(黄色い煉瓦)造りなら壁紙は貼らないのでは? そのあたりがよくわからない。黄色い部屋は金庫室のように密閉されていたーーと探偵は厳かにいうので、煉瓦仕様も隙間のない(毒蛇の出入り口をこしらえたドイルを馬鹿にした手前)イメージを強調したかったのか。粗末な土壁とかに黄色い壁紙では、いかにも「ユダの窓」がどこかに開いているように思われるからだ。
⑪の例は、大胆に原作を補っているケースだ。
腰高のところまでが煉瓦づくり、その上から天井にいたるまでが壁紙貼り、というイメージになる。これは、翻訳者による解釈によって、原作の矛盾を軽減させたわけだろう。煉瓦と壁紙とをどちらも生かした折衷案である。
ルレタビーユは、この密室の床を文字通り這いまわり、徹底的な現場検証に努める。床の次は煉瓦壁。そして壁紙。そして化粧台と椅子を踏み台にした天井調べ。虫眼鏡や定規のような小道具をとりだして使ったとしても不思議ではない。
この場面で、彼が発見するのは、第七章末に芝居がかって言挙げされるように、金色の髪の毛一本にすぎないのだが、要するに、黄色い部屋の探索とは、彼にとって[母体回帰]の意味を帯びざるをえない行為だった。床を這いまわるのと同じ密度で、壁を這い五体を密着させ、指の触感と嗅覚を総動員する。それは彼にとって黒衣夫人への献身そのものだった。
作者は、彼の行為を微細に描くほどの熱意を、黄色い部屋の壁の素材を描くことに示さなかった。描くことは描いたが[煉瓦か壁紙か]どちらとも採れる(だが、深い意味があったとは思えない)不注意な描きようだった。
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