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『怪盗対名探偵』の「はしがき」と「あとがき」から

『怪盗対名探偵』の「はしがき」と「あとがき」から

 フランス・ミステリーは英米とはまったく異なる成立と経過をたどり、その作品もまたきわめて特異な特徴をもっていることに着目しなければならない。
 その特徴とは、十九世紀の大衆小説の主流となったロマン・フィユトンの輝かしい長い歴史とかかわっている。このフィユトンの影響は、現在のフランス・ミステリーに、いまなお大きく残っている。そればかりでなく、じつは日本の推理小説誕生とも関係している。特にこの点は見逃せない。[…]
 最近になって、フランスの推理小説とかかわりの深い、無声映画の「ジゴマ」とか、大戦中に製作された、ステーマンやピエール・ヴェリイの映画をフィルム・ライブラリーで見る機会を得た。長年の宿願だったから、これは有難かった。
 それとは別に、ロマン・フィユトンの代表作、黒岩涙香の翻案で有名なボアゴベの「鉄仮面」が、長島良三氏の御苦労により講談社から三冊本で完訳で紹介されたことは、かつてなき壮挙であった。旺文社文庫に入っている筆者の訳した「ルコック探偵」、デュマやユーゴーの作品、ルパンものやルルーの「黄色い部屋の謎」などを併せ読めば、ロマン・フィユトンとはいかなるものか、ほぼ想像できるようになった。ロマン・フィユトンを頭におかなければ、フランスの推理小説は完全に理解し得ないのである。
 フランスの探偵小説は、英米とは異なる、独自の流れのもとに書きつがれてきた。ヴィドックの「回想録」の影響ははかり知れないほど大きいが、その流れのなかに投じられたエドガー・アラン・ポーの影響力が、決定的に新しい波となって、探偵小説を生むことになる。ヴィドックとポーの影響のもとにフランス・ミステリーは生長してゆくのである。
 
 
 はじめにお断りしたように、最初の計画では、レジ・メサックの「探偵小説と科学思想の影響」を種本として、フランスのミステリーがどのようにして生まれたか、その結果、どのような経路をたどって発展したか、これをまとめてみたいと考えた。じつはそう考えたのは、晩年の江戸川乱歩が世界の探偵小説史を書こうと計画し、まずメサックの論文を下訳させたことが頭にあったからだ。[…]
 筆者の最大の関心事はフランス・ミステリーの起源ともいえるフランソア・ヴィドックにあった。フランス・ミステリーだけではなく、これほど後世の探偵小説に影響を与えた書物は、ポーを除けば、ヴィドックの「回想録」だけだろう。乱歩もヴィドックの「回想録」には常に興味をもち続けていたが、この伝説的な「回想録」は、今もって日本では翻訳さえ出ていない。
 ナルスジャックの評論をはじめとして、十指に余るフランス人の書いたミステリーの研究にも、ヴィドックの「回想録」は余り深くは触れられておらず、日本でも植草甚一氏などフランス・ミステリーの理解者も、あまり興味を示していない。だが、まずなによりも、ヴィドックの「回想録」に触れない限り、これに直接かかわることになるフィユトンを理解することはできず、そのフィユトンに大きく影響されている現在のフランス・ミステリーも理解できないので、フィユトンの特徴を考えながら、ヴィドックの影響を摘出するように心掛けて書いた。
 もう一つの問題は、レジ・メサックの「探偵小説と科学思想の影響」のことである。
 この大著についても、フランスの研究者も必ず注意をうながし、日本のフランス・ミステリーの理解者もこの論文の名をあげているにもかかわらず、詳しく触れようとしていない。では、メサックがこの大著で言いたかったことは何か。ひとことで言えば、メサックが論じているのはフィユトンである。これとかかわりのある探偵小説(メサックが、ロマン・ポリシェといわずに、わざとディテクチブ・ストーリイといっていることでも判るように)とは、英米の探偵小説のことであって、ガボリオのような有力な探偵小説作家が出ているにもかかわらず、探偵小説はアングロ・サクソン系の小説形態だと主張している。
 フランス・ミステリーを語るうえで、ヴィドックの「回想録」と、レジ・メサックの「探偵小説と科学思想の影響」を避けては通れないのである。
 
 
『怪盗対名探偵』松村喜雄 晶文社 一九八五 14-15p
  &343-344p

 
 
 引用文章は、八〇年代の産物。
 昔日の感なしとはいえず。
 ヴィドック『回想録』の完訳は実現したし、メサックの大著も翻訳進行中だという。しかしながらーー。
 フランス探偵小説への理解度を深めるための環境は、壊滅的に悪化しているように思えなくもなく……。
 

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