小酒井不木の探偵小説論
小酒井不木(一八九〇ー一九二九)は、日本探偵小説の出立時から、理論家・実作者として、その中心に立った。彼の史論の骨子は、一九二〇年代に開始された日本探偵小説近代の源流を、下の引用に明らかなように、直接に本国の直近の過去ーー江戸時代に探ったところにある。西欧の原型に範をあおぐといった近代日本の大勢にしたがったのではなくーー。
『犯罪文学研究』の冒頭から。
探偵事件を取り扱つた小説が、日本で広く世に行はれるやうになつたのは徳川時代以降である。慶安四年(一六五一)、支那の裁判小説『棠陰比事』の日本語訳『棠陰比事物語』が刊行されて非常な人気を得てから、これに類似した裁判小説が続々刊行された。即ち元禄二年(一六八九)には井原西鶴によつて、桜陰比事が書かれ、宝永五年(一七〇八)には月尋堂の鎌倉〈けんさう〉比事、次で宝永六年(一七〇九)には、作者不詳の桃陰比事(後に藤陰比事)が出た。この外に、裁判小説専門ではないが、安楽庵策伝の醒睡笑(寛永五年ーー一六二八)の中に、板倉伊賀守の取扱つた裁判物語が書かれてあつて、これは多く実談であるらしいが、兎に角物語として読んでも甚だ面白く、鎌倉比事の中には、この中の話を焼き直したものもある。
この外、支那の杜騙新書、騙術奇談と類を同じくする騙盗を取り扱つた物語に、西鶴の弟子団水の著はした『昼夜用心記』(宝永四年ーー一七〇七)と月尋堂の『世間用心記』(宝永六年)とがあつて、いづれも、多大の人気を得ることが出来た。
これ等の小説が出てからは、江戸の末期に至る迄類似の書物の刊行がなかつたやうであるが、馬琴の『青砥藤綱模稜案』(一八一一-一二)が出るに及んで、裁判物語中、人気の焦点となつた。又、かの『大岡政談』として現今に至るもよく読まれて居る実録小説は、誰の作かはわからぬけれど、棠陰比事などの物語も可なり沢山取り入れられて居るやうであつて、『青砥藤綱模稜案』も、大岡越前守の政談がその骨子とされて居る。
春陽堂 一九二六年十二月 6-7P (西暦年号を補った)
近代日本探偵小説の[紀元前]を走査するためには、小酒井不木の労作は、やはり、第一等の参考となるだろう。彼の所論をいちおう摂取したうえで、尾佐竹猛なり柳田泉なりを参照するのが、基本的な手順だ。
ただし、小酒井があまり重視していない『大岡政談』への位置づけにおいては、彼の創見から大きく離れることになる。なぜ『大岡政談』が問題とされるべきなのか。その答えは、仏蘭西探偵小説との関連のなかに発見されてくるはずだ。
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