文耕獄門首
一七五八年(宝暦八年)、講釈師・著述家の馬場文耕が、その言論活動の故に、死刑になった。町中引き廻しのうえ、獄門さらし首の刑罰。
この年の九月十日から十六日までの七日間、文耕は人気の口演『森の雫』を敢行した。演題は、進行途上にあった「金森騒動」と呼ばれる百姓一揆。世の騒擾事件の報道、百姓一揆という題材、どちらも幕府の禁忌にふれる。二重の意味での[掟破り]だった。最終日の聴衆は約二百人、このなかに奉行所同心が潜入していた。
文耕は捕縛され、三カ月の取り調べの後、十二月二十九日、千住小塚原で処刑される。当局は、彼を支えた情報提供者・出版関係者のネットワークを根絶やしにするべく、苛烈な取り調べを行なったのだろう。
江戸前期、幕藩体制による言論封殺の勢いは、まだ衰えをみせていない。獄門が重すぎる報復刑だったかどうかはともかく、見せしめの効果は絶大だった。一度やれば充分、というところか。十五冊あった文耕の著作はすべて禁書あつかい。文耕について語ることすら[危険視]されたのか、彼の文献は乏しいかぎりだ。その実像もはっきりしない。
文耕が一貫して、今でいう反体制ジャーナリストだったという事実は確認できない。八代将軍のことは、改革の政治家として高く評価していた。文耕の筆による吉宗の挿話は、ほとんど幕府公認の正史『徳川実記』に採用されている、という。その点だけからいえば、体制イデオローグの位置にある。見せしめ刑に処せられるまでの曲折は、よくわからない。しかし、九代将軍への批難は一転して激しい罵詈雑言をふくんでいたから、要注意の文筆家だったことは間違いない。
上の記述は、今田洋三『江戸の禁書』(一九八一)を参考にした。
文耕の著作は、『世間御旗本容気』『近代公実厳秘録』『当時珍説要秘録』『名君享保録』『当代江都百化物』などが復刻されている。弾圧の的となった『森の雫』は、写本の形でも遺されていない。
文耕の実像が不明瞭なこと、そして、言論活動にたいする極刑が江戸文学史のなかであまり重要史されてこなかったことーー。これらの実状は、幕府による見せしめ刑の呪わしい効果が、二百五十年以上を超えて、いまだにわれわれを射止めているような不快な気分にさせる。
小塚ッ原(骨が原)の刑場でサラシ首になるというイメージは、プロレタリア文学の転向小説の一景にも言葉として出てくる。百年近く前の時代には、まだ身近に感じられるような恐怖だった、と想像できる。
忘れないうちに、宮武外骨『筆禍史』を調べなおすこと。
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