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3 純文学をポケミスに入れるな

3 純文学をポケミスに入れるな

『娼婦の時』あとがき  ーークロード・モリアクのシムノン論についてーー
 この小説をポケット・ミステリに入れると聞いて、私はちよっと首をひねった。これはシムノンの純文学的作品だからである。
 すこし前に評判になった、クロード・モリアクの『近代の非小説』という評論集の中に、シムノン論も載っている。モリアクが非小説と呼んでいるのは、日本でいう純文学というのと、ほとんど同じ意味である。著者はこの本の中で、カフカ以来今日までの、新らしい平面に立つ作家十七名を選んで、彼の理論を展開させている。
日本の探偵小説の読者には、あるいは意外であるかも知れないが、シムノンをカフカの系列に数えあげているのである。
 私が首をひねったもうひとつの理由は、これがシムノンの作品の中でも、かなり晦渋なものだからであるが、『判事への手紙』や、『雪は汚れていた』などを入れるのも既定の方針だというし、メグレ物を入れることには私も躊躇なく賛成したが、メグレ物も近作はかなりむずかしい小説になっているのだから、躊躇する必要はなかったと思いなおした。

 ーーこの文章は日影丈吉によるもの。名うてのミステリ作家であり、フランス探偵小説翻訳家であるが、この文章では、すっかり[フランス文学者]している。
ここで、権威づけのために引かれているモーリアックといえば、ジッドとならぶ[シムノン絶賛家]の一人。今では文学史上の名前でしかない(?)が、シムノン文学説にとっては心強い人材であるのだろう。

現代人の代弁者シムノン 『ベルの死』解説
 この小説は『ベルの死』と題されてはいるけれど、ペルという一少女の、殺人事件の謎をときあかしてゆく物語ではない。ベルの死によって、ひとりの中年男のこころの謎がときあかされてゆく物語なのだ。この点を誤解すると、こんな探偵小説ってあるもんか、これじゃ尻きれトンボじゃないか、と読みおわってから、腹を立てるようなことになりかねない。
 だが、それは腹を立てるほうが悪いのであって、この小説はちゃんと始まるべきところで始まり、ちゃんと終るべきところで終っている。これ以上、細部を削ったり、書きかえる余地なら、あるいはあるかも知れないが、書き足す余地はぜんぜんないほど、キッチリ出来あがった小説なのだ。それは確かに日本人の常識にある探偵小説とは、ひどくかけはなれたものには違いないし、シムノン自身もこの作品を《小説》と銘うっていて、単なる探偵小説と見られるのは、迷惑らしい様子だから、読者がめんくらうのも無理はなかろうが、この作品は探偵小説が百年の道をあゆんできたすがたを示すのに、絶好のサムプルなのである。

 ーーこの筆者は都筑道夫。内容もともかくであるが、このまんまんたる闘志をみよ。
 とくに、この末尾の一文ーー「探偵小説百年」を言挙げする気合い。
 HPBの企画編集者として、これを読まねば現代ミステリは語れない、と宣言したのだ。読んで理解できなければ、それは「腹を立てるほうが悪い」と、先回りして書く気配りもみせている。
 だがーー。
 これがコケた。
 この屈辱的な[敗北]を回顧する証言を二つ採録してみる。

『メグレと殺人者』解説 河出文庫 1982.6
 私がハヤカワ・ミステリのセレクターだった二十数年前、なんとかシムノンのロマンを出したくて、「べルの死」というのを、すべりこませたときなぞは、      
「こんなわけのわからない小説を、今後も出すつもりなら、もうハヤカワ・ミステリは、ぜったい買ってやらないぞ」
 という意味の投書が、何通もあったくらいだ。「べルの死」は、殺人犯と間違えられる男の物語で、最後まで真犯人がにわからないのである。むろん、正確にいうと、真犯人を出しだのでは、作品の狙いがそこなわれる小説だったのだが、投書に恐れをなしたわけではないけれども、売れゆきは思わしくなかったので、それきり私はシムノンを選ばなかった。

『世界ミステリ全集9』早川書房 1973 解説座談会から
 ポケット・ミステリとおなじスタイルで、へりだけ茶いろい色かわりのシムノン選集ーーあれが、あらかた出おわったところへ、ぼくがエラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン日本語版のチーフ・エディター兼ポケット・ミステリのセレクターとして、入ったわけですよ。たしか選集の残っていた『過去の女』と、『メグレと老婦人』を機械的にひきついだんじゃないかな? 訳者が松村喜雄さんと日影丈吉さんで、親しかったからね。もうひとつ、ずっと遅れた『メグレと無愛想な刑事』は、選集では売れないんで、ポケット・ミステリに入れたんです。
 『雪は汚れていた』は選集の最初のほうで、もうもちろん出てましたよ。セレクターとして手がけたのは、『ベルの死』『メグレ罠を張る』『可愛い悪魔』『死体が空から降ってくる』『上靴にほれた男』の五冊。このうち『罠を張る』と『悪魔』は映画が入ったから、やったわけでね。積極的にやったのは、『ベル』と短篇集二冊だげなんだ。だから、シムノンに冷淡だといわれてもしょうがないけど、なにも英訳本でしかセレクトできなかったから、というだげじゃない。冷淡にならざるをえない面も、あったんですよ。ぼくが惚れ、訳者が惚れ、二重ぼれで張りきってやったような作品ほど、売れないんだもの。
 シムノンは日本でも、出すほうの側からいうと、決して冷遇されてる作家じゃないわけですよ。たいてい日本の読者に受入れられない作家は、純文学はとにかくとして、あっさり出版社側もあきらめちゃうでしょう。ところがシムノンは、間をおいて何度も、選集みたいに出してる。何度もやって、うまくいかない。だいたい春秋社とかサイレン社とか、日本で最初に出たころは、そんなにひどく売れない作家じゃなかった、と思うんです。
(以下略)

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