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バルザックの赤い密室

バルザックの赤い密室

 バルザックの密室は、黄色い部屋の謎とはちがって、赤い宿屋の一角にある部屋のこと。
 バルザックは、二作の密室殺人ものを書いている。一九三一年作の「赤い宿屋」がその一つ。もう一つの「グランド・ブルテーシュ奇譚」は、真に独創的なトリックを創出しているが、「赤い宿屋」のほうは、技巧を弄しすぎた部分が邪魔になって、探偵小説として分析するところが、前半にかぎられるといった有り難くない出来栄えを呈している。

 『赤い宿屋』の密室構成は、三段から成る。一は、物理的な密室。現場に犯人以外の何者も侵入できない密室をつくりだす。二は、心理的な密室。犯人(とみなされた容疑者)の夢遊病が利用されている。これは、論理一辺倒の密室マニアには許容しかねる要素か、と思える。三は、叙述上の仕掛けによる密室性。聴き手たちを一身に惹きつけた語り手、そして彼らを等分に観察し、随所にその観察を挿入する「私」の叙述。その二段構成が物語全体の外部を遮断してしまう。
 細部の描写を疎かにしない語り手の細心さは、事件当夜の現場が、密室以外のなにものでもなかったことを、言葉を尽くして聴き手に説明する。

 ここでは簡単に済ませるが、作者が最も意をつくそうとしたのは、二のトリックではないか、と想える。現代の読者傾向にしたがっていえば、夢遊病を小道具にしたトリックと考えられるが、バルザックにはトリックという発想自体がなかったはずだから、夢遊病のとりあつかいは、ごく素朴な手つきのものだ。
 思うに、バルザックは、己れの宿痾であった夢遊病を、目立ったかたちでは、作品にあまり有効には生かしていない。自己〈ゼルプスト〉が分割され、自分の力ではどうにも統御できなくなる、という局面を作品的に追跡した痕跡は多くは見いだせないのである。
 断片的ではあっても、「赤い宿屋」は、そうした痕跡の数少ない例だ。それが、密室トリックと結びつく設定の一要素に使われていることは、やはり、バルザック探偵小説の深い時代証言性を示す。


 

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