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サルトル『家の馬鹿息子』

サルトル『家の馬鹿息子』

 サルトル『家の馬鹿息子』は、邦訳四分冊(約八千枚)のボリューム。気になっていた文献だが、今回の参照リストからは除外してもいいと判断した。
 リストアップしておいた理由の第一は、同書が[一九世紀第二帝政時代のフランス作家と社会]を広範にあつかった研究だという予備知識からきている。
 『L’Idiot de la famille, Gustave Flaubert de 1821 a 1857』は、第一巻・第二巻(長すぎるので分冊となった)が一九七一年、第三巻が翌年に刊行された。サルトル晩年の大作として高名をはせている。批難(この作品に限定するものに限るが)は、あまり眼にしたことがない。
 邦訳は四巻だが、その刊行の間隔は異様に長い。一巻が一九八二年、二巻が一九八九年、三巻が二〇〇六年、四巻が二〇一五年。単純に三三年経過している。その歳月のうちに、共同翻訳者の中心人物が逝き、もう一人が不可解な脱落を遂げた(この件にこだわると、話がべつの興味に拡散していってしまうだろう)。訳者の一人海老坂武は、本書を、サルトル思想の「全体化」構想のすべての実現であり、したがって、本書を視野にふくまないサルトル理解などナンセンスだと断定している。この断言は、第三巻の解題に書かれたものだが、その後、翻訳チームを再編成した第四巻が刊行されるまでも、九年経っている。それほど重要な文献だと主張するのなら、単独で翻訳(英語版のように)する選択肢もあったのではないか……。著者のサルトル自身は、この本が「全体化」構想の一環として読まれるべきであることを厳かに要求するにとどまらず、研究書としてではなく「真実の小説」として読め、と読者を脅迫している。
 原著の出現からも、約半世紀。時代は移ろい、サルトルの盛名ばかりでなく、サルトルが体現した政治参加する反体制知識人という像も、地に堕ちて久しい。
 わたしの仏蘭西探偵小説論の構想にあって、サルトルの『嘔吐』は、かなり根幹的な位置づけをしめている。その関連もあり、上に記したような理由によって、面倒でも『家の馬鹿息子』参照のために時間をさくことも必須であると想えていた。邦訳は、第一巻と第二巻の完訳であり、対象はフローベール個人だ。第二帝政期のフランス作家と社会を考察する原著第三巻の日本語化は、いまだ手がつかず。第四巻の監訳者あとがき(鈴木道彦)を卒読しても、有効な見通しは述べられていない。原著そのものが「未完」であるとはいえ、邦訳四分冊の内容は、わたしの構想に豊かな参考項目をつけ加えるには到らないようだった。


 

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