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薔薇のスタヴィスキーと白髪のジョーとシムノン

薔薇のスタヴィスキーと白髪のジョーとシムノン

 本の前半(シムノンまで)の第一稿は仕上がったものの、どうも「これは少し違うな」といった不満のほうが大きくて。一から構想しなおしたほうがいいんじゃないかと想えたりして、あまり関連もなさそうな異分野の資料までいろいろと手を伸ばしているうちに、光陰矢のごとしの毎日が借金取りのようにおれの時間を喰いつぶしていって。
 したがって、このページも、うだうだと「非常事態宣言」下の営業自粛状態がつづいてしまった。
 そろそろ軌道をもどさねば。

 オーギュスト・ル・ブルトン『無法の群れ フランス暗黒街の回想』(一九七三)にとりかかる。白髪のジョーの異名で知られるアウトロウの一代記。聞き書きだ。すこぶる面白いのだが、これがやたらに長くて、年寄の自慢話につき合うのも真ん中あたりで疲労困憊してきた。
 終身刑をダブルで喰らうような凶悪犯でありながら、逃亡を重ね、戦争(第一次大戦)で名誉の負傷を負ったり恩赦されたり、結局、老齢年金を国から支給されるまで長寿を果たした痛快な人物だ。とにかく明るく、楽天的。やくざの回顧録にどうしてもつきまとう一種の陰惨さとも無縁だ。
 ストリートの暴力稼業の事始めは、アナキストのボノ団との奇妙な共闘だった。ジョーは政治思想皆無のゲバルトやくざだが、体制破壊を叫ぶアナキストと兄弟のように親和した。そして一代記のフィナーレを飾るのは、占領期の混乱を語る短い断章だ。この部分だけでも、フランス現代史の不可思議さ(教科書は何も教えてくれない)を解明する有効な証言となっている。
 それに先立つ後半の山場がスタヴィスキー事件と彼の関わりを語るところ。37から40章。
 スタヴィスキー事件とは、一人の詐欺師の活躍によって、フランス国家の中枢ががたがたに撹乱された政界スキャンダル。現代史の教科書に取り上げられるような[正史]の出来事だった。第三共和政(フランス民主主義)への決定的な不信が、この事件あたりから奔流となっていく。ジョーの回顧の観点は、しかし、徹頭徹尾[やくざ目線]だ。彼は詐欺師を利用した。メシの種にした。それだけだ。彼の眼からは、スタヴィスキーは一流の悪党だが、自分とは生きる世界が異なる。仲間ではないし、共感もできない。不要になれば捨てる。恩義など一かけらもない、と。
 ここで、回顧録には、もう一人の重要な脇役が登場してくる。当時(一九三四年)、人気作家として売出し中のシムノンだ。シムノンは雑誌の依頼で、事件の探訪ルポを引き受けた。シムノンはジョーを事件のキーパーソンと見当をつけ、何とか取材の機会を持とうとする。ミリュー(裏社会)では白髪のジョーとして怖れられた男。彼を、シムノンは「恐怖のジョー」として、実社会の有名人に仕立てあげた。
 このあたりの、シムノン側からのデータは、瀬名秀明『シムノンを読む』「第60回「犯罪隊商」他 犯罪ルポルタージュ他」(翻訳ミステリー大賞シンジケート)に詳しい。
 シムノンの描くジョーの肖像は、粗暴で知性のないやくざそのものだ。「ドタマかち割ったろか」などと陳腐な科白しか口にしない。じっさい、回顧録で当人が自慢しているのも、こんな言動のケースが少なくない。スタヴィスキーから、うるさい記者を黙らせてくれと頼まれたジョーは、そのとおりにする。記者を手練のパンチ一発で沈めて、ストレートな脅し文句で震えあがらせた。その手際の良さを自慢している。とはいえ、ジョーはそんな額面通りの単細胞な人物でなかったことは確かだ。シムノンによる異名に、彼は伊達男としての虚栄心をくすぐられていたのかもしれない。少なくとも、不快感はいだいていなかったろう。
 回顧録には、シムノン側が多額の謝礼金(インタビュー料)を提示していたことが、明らかにされている。また、ジョーは、シムノンへの情報提供者を特定し、その男による情報が当てにならなかったことを指摘する。当てにならないというか、ミリュー(裏社会)の稼業人はお互いに貶めあうことが常態だ。「男爵」の異名で呼ばれる人物がジョーについて語る[真実]は、たんに「男爵」の利害によって選別される真実にすぎない。ある人物にとってのみ都合のいい[真実]の裏を見抜く情報力なしには、ミリュー(裏社会)を長く生き延びることは望めない。
 スタヴィスキー事件は、中心になった人物の自殺によっていったんの収束となったこともあり、他殺説も浮上し、ジャーナリズムにとっては恰好の題材だった。謎また謎と興味を肥大化させていく話題にも事欠かなかった。
 回顧録によれば、ジョーは一時期、スタヴィスキーのボディガードとして雇われていた。それだけの関係だったと明らかにしているが、雇い主の性格については、長所欠点とも、必要にして充分な観察はくだしていた。ジョーは定額週給で雇われていた。稼業の経済生活は不安定きわまりないものだった。大金が入れば(合法非合法を問わず)散財してしまうから、基本的には窮乏暮らしだ。スタヴィスキーのおかげで堅気の俸給生活者になれた、と安堵をもらしている。
 スタヴィスキーには短い栄華しか与えられなかった。巨額の賄賂を政権中枢にばらまいたけれど、彼の味方につく者は、最後には誰もいなかった。ジョーは助言した。「尻に帆をかけて逃亡しろ。どこにでもいいから。チャンスはまた巡ってくるさ」と。それが彼の生き延びてきたやり方だった。同時に、ジョーは、スタヴィスキーの決定的な弱さも見抜いていた。同じ悪党でも、この男には「やり直す」という選択肢が選べないのだ、と。それが、後年『薔薇のスタビスキー』という映画(監督アラン・ルネ、脚本ホルヘ・センプルン、主演ジャン=ポール・ベルモンドの豪華さ)を実現させた美学だった。一匹狼のやくざ者ジョーには関係のない美学だった。彼とスタヴィスキーの訣別する場面が創作めいた回想であるかどうかは別にして、彼がシムノン筆による単ゲバやくざにとどまらない人物だったことは否定できない。
 『無法の群れ』は、一九世紀の『ヴィドック回想録』にも比肩される貴重な資料読み物だ。アウトロウの視点によって描かれた歴史が真実の洞察に導くだろう。

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