COLONIAL ENCOUNTERS

COLONIAL ENCOUNTERS
Europe and the Native Caribbean,1492-1797
Peter Hulme 1986,1992
『征服の修辞学』ヨーロッパとカリブ海先住民、1992-1797年
ピーター・ヒューム
岩尾龍太郎、正木恒夫、本橋哲也訳
法政大学出版局 叢書・ウニベルシタス 1995.3
ヨーロッパによる新大陸の「発見」。文明による「未開」の発見ーー。
それは、世界史上の「進歩」の観念に彩られてきた。
一方で、それは、発見される側の観点を徹底して排除することによって、人類史をヨーロッパ中心史観に固定してしまった。
本書は、ヨーロッパ人による未知(「未開」)との遭遇が、いかに誤解と偏見に基づいたものであったかを明らかにする。「未開の島」に野蛮な「人食い人種」が生息しているーーという「文明の神話」は、根本的なコミュニケーションの行き違いから生じたものと思えるが、以来数百年にわたって持続することになった。

ロビンソン・クルーソーは断固たる「近代」人である。彼は、封建的・家父長的束縛を払い除け、ヨークで法律家になることを拒否して、ハルの港で提供された船出という危険な「始まり」を選ぶ。
のちにブラジル定住を放棄したのもまったく同様である。クルーソーを規定するのに、この徹底した可動性以上に適切な規定はないのだが、彼は「悪い運命」「悪しき彫響」「船出したいという衝動」といった陳腐な説明しか与えていない。ともあれ小説はこの駆動性を閉止することがない。
もしこの駆動性が心理的特性であったならば、倦怠や死の形で閉止が訪れたであろうが、そうはならなかった。このことは、クルーソーのみが動き回ることがイデオロギー的所与であり、植民地言説によってはけっして定式化されることがなかった問題、すなわちパウハタンによってジョン・スミスに突きつけられた問い、そして『ロビンソン・クルーソー』が、フライデーに発する隙を与えなかった問いに対する答えであることを暗示する。
だが近代ブルジョア主体が、ゼウスの頭から生まれたパラス・アテネのように、誕生の瞬間から大人の姿を備えていることは期待すべくもない。デカルトの『方法序説』が十分な自己意識をもった新しい主体性を提示しているのに対し、クルーソーが体現しているのは根源的個人主義という別種の観念である。これは、自己理解を欠いたまま、後向きに未来へと、よろめきながら歩んでゆくものであり、罪にまみれ、自己矛盾を孕み、恐れおののき、暴力的である。ヨーロッパ人の意識の近代性は、カリブ海域、まさにあの「ヨーロッパ人の意識を転倒する諸島」で難破したのである。

『ロビンソン・クルーソー』の複雑さについては、それが虚構小説という「想像的空間」に存在しな
がら、デカルトのように社会的関係を拒絶せず、そのため危険なテクストとなった、という言い方も
できる。このテクストは、新しい主体性から現存する関係をすべて剥ぎ取り、「他者」の問題に突き
あたり、そこから必然的に生ずる不安に向き合っている(この点で鸚鵡の声「ロビン」は徴候的であ
る)。
ジェームズ・ジョイスは一九一二年、いわば新しい主体性の対極の位置から、すなわちイギリ
スを透視するに有利なダブリン/トリエステ軸から、なんのためらいもなく『ロビンソン・クルー
ソー』を帝国の予言と見なして書いた。
大英帝国による征服の真の象徴はロビンソン・ク ルーソーである。……アングロ・サクソン精神
のすべてはクルーソーにある。男性的自立、無自覚な残虐性、持続力、緩慢だが有能な知性、性
的無関心、実践的でバランスのとれた宗教性、打算的な寡黙さ。
「象徴」や「予言」は批評の語彙としては危険であるが、過去を振り返るための言葉であるから弁護
できよう。ジョイスが言いたいのは、デフォーがそうした語調で大言壮語したということではなく、
二〇〇年後の現在から見てクルーソーを英国植民者の「原型」(ジョイスの用語)と見なしうるとい
うことである。言い換えればこの新しい主体性は、個人的であると同時に国家的な意識である。この
二つの意識は、カリブ海域という鍛冶場で鋳造された。カリブ海域は、寓話的であると同時に歴史的
な領域であり、これは今日の英国にとっても変わらない。ついでに言えば、そこに生ずる社会的関係もまた、個人的であると同時に国際的でもある。