シムノンの日曜日
シムノンの[純文学]小説をセレクトした選集は、一九七〇年前後の刊行だった。
『日曜日』(一九五九)もその一冊で、当時は読み落としていたようだ。シムノンの[普通小説]というと、必ずついてまわる[勲章]が、この翻訳者あとがき(生田耕作)にも顕著だ。このように、常に、この作家は特別扱いされる。これは、作家自身が自分を伝説化する強い欲求に取り憑かれていたのだから、当然といえば当然だけれど、われわれのフランス探偵小説論のテーマからみると、取り除くのが面倒な、どうにも鬱陶しい遮蔽物になる。
ーー『日曜日』は、夫が妻を毒殺する話を倒叙スタイルで描いた探偵小説だ。
作品論としては、簡単に済ませるはずなのだが、遮蔽物が大きすぎて、あちこちに迂回路をとらねばならない。
シムノンの長編はいずれも短く、より適切にいえば、少し引き延ばされた短編なのだ。短編としては長すぎるという不満は、[短すぎる長編]といった質感の裏返しだ。『日曜日』もその例外ではない。タイトルの日曜日は、決行の日であり、物語の運動はそこに収斂していく。サスペンスの効果を狙うためなら、不要な部分にも作者は多くのページをさいている。
たしかに、シムノンは、この主人公の殺意の深みまで降りていき、彼への同情を惹かせることには成功している。だが、それは共感にまで到るかどうか。彼が自分の人生にいだく疎外感は強固なものだ。彼は根深い挫折感への恨みを、いつしか妻という一人格にすべて一元化してしまう。そして、そのことを妻に見抜かれている。もちろん、作者にとって、主人公以外の人物の内面など描く義務はないのだが、この男の哀れさが妻という[鏡]をとおして透かし絵のように浮き上がる人物描写を読ませる力量に恵まれている。
ーーそういうわけで、『日曜日』は、上質の犯罪ロマンであり、〈本格的〉な心理小説の傑作である、という堅固な常識的文学観の整理棚にがんじがらめに宙吊りにされてしまう。
いくぶん間延びしたところはあるが、毒殺ミステリの秀作、オチも見事ーーなどと評価すると不見識を免れないのだろう。
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