メグレのごとく生きる者1
『メグレ最後の事件』Maigret et Monsieur Charles(一九七二)は、作者自身がシリーズに終止符を打ってしまった作品として知られている。
邦訳タイトルは、それに由来するが、原題は「シャルル氏とメグレ」。被害者になった男に主人公がいだく[共感]は、メグレ第二作の『死んだギャレ氏』(一九三〇)を思わせる。事件の進行からみれば、第二作を裏返しにしたふうな展開だ。メグレの関心が、シャルル氏の女房のほうに、嫌悪とともに惹かれていくからだ。基本的には、上昇志向に破れたヒロインの物語だが、彼女へのメグレの(したがって作者の)険しい感情が、その枠組を歪めてしまっている。
この作品から、ここまでのメグレ世界にはなかった要素を期待する読者は、失望するだろう。メグレ小説の魅力はそなえているが、それなら以前の作品にもあった。その意味では、[新作]であるという以外に、特別の感動をおぼえることはない。この作品を最後に、作家としてのシムノンが活動を停止した、という背景が作品以上の興味をかきたてる。[引退絶筆]宣言から後、十数年を彼は生きた。これは、かなり特異なケースではないか。一定の読者を満足させる均質なシリーズ作品なら、まだまだ書きつづけられる余力はあったろう。その機会を、自らあっさり閉じてしまう。彼の貫いたスタイルは、絶筆さえも見事な一つの作品だった、と納得させる。
メグレ・シリーズは、長編七十作、短編集六冊(四十数篇)。初期の四年に集中して十八作、中期は短編にいくらかシフトを移し、最後の十年には年に一点ほどにペースを緩め、作家シムノンはメグレとともに生きた。しかし、『最後の事件』に訣れのあいさつめいた言葉を捜すのは無駄だ。執筆しているうちは、少なくとも、止めるつもりなどなかっただろう。チャンドラーのような自己憐憫とは無縁だった。
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