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マルセル・エイメ覚書0

マルセル・エイメ覚書0

 マルセル・エイメ(一九〇二ー六七)は、位置づけの困難な作家の一人であり、既成の研究書などはあまり参考にならない。。R・M・アルベレス『現代小説の歴史』(一九六二)、モーリス・ナドーの『戦後のフランス小説』(一九六三)といった包括的な評論にも記述はさかれていない。[大衆作家]は対象外とする牢固たる文学史的分類術に阻まれるだけだ。わずかに、G・ブレー&M・ギトン『小説の時代』(一九五七)に納得のいく考察が見つけられる。その著者によればーー戦間期のフランス小説の社会性には二つの《第一次大戦に後退していく流れと、第二次大戦に前進していく流れ》(佐藤朔・若林真訳 紀伊國屋書店 一九五九 175ページ)があり、エイメは前者に属している。エイメの活動は、第二次大戦後もつづき、占領期・戦後期をテーマに選んだ作品もあるが、「後退派」に属する、と。
 この評価には背景的な説明が必要だが、それは、後回しにしよう。
 極私的にいえば、エイメは、異色作家以外の何者でもなかった。旧『異色作家短編集』十八巻のなかで、スタージョンとならぶ至高の2トップだった。極私的というのは、その作品について何か評論めいたものを書くことは考えもつかなかったからだ。スタージョンについては、『NADS89』に多くのことを、書きすぎたと想えるくらいに書いている。あえてそれを選び取った。エイメについて同様の選択をしようとは想わなかった。懐旧のなかに封じこめ、書かずに済ませるほうがいい秘跡の事柄を、少しでも残しておきたかった。

 『小説の時代』は、二〇世紀前半のフランス小説の展開を跡づける評論だ。ジッド、プルーストと二人の巨匠からはじまり(幸いにして、他の名前は省かれている)、第二章「みごとな新世界」で五人の社会小説の書き手をあつかう。その章内エピローグの構成で、エイメが論じられる。章タイトルがオルダス・ハックスレーの、かつてはもてはやされたアンチ・ユートピア小説から採られていることから見当がつくように、内容には多くの反語がこめられている。著者の主張は、この五人が旧世界を旧来の方法で、二〇世紀の到来にもかかわらず、大真面目に描きつづけた、という批判にあるのだから。その四人目にくるのは、社会主義リアリズム作家(シュルレアリスムから転向した後)のルイ・アラゴンだ。著者は、その長大な小説が十年を経ずして紙くず同様になっている事実を無遠慮に暴いている(シュルレアリスム時代のアラゴンについては、高評価だが)。その後に、エイメが論じられ、小説家としてはずっと[誠実な]存在であった、と評価される。

 『小説の時代』は、エイメの章のみでなく、他の、シュルレアリストやサルトルへの考察においても、啓発されるところは少なくなかった。それらの関連事項に関しては、後の章でも適宜ふれていくことになるだろう。ここでは、その論考を参照しつつ、わたしのエイメ像を組み立てていかねばならない。基本的にいえば、エイメは多面的な作家だ。それらをまず、分解してみる。

 さきに結論的なことを書いておくーー。
 要するに、エイメは[時間]の作家だ。
 時間の断絶と不作為の結合と。彼ほど明敏にそれらに苦しんだ作家はおるまい。
 [時間]がつながらない。他の者には連続している時間が、彼個人の自己〈ゼルプスト〉のなかでは断裂飛躍する。彼の作品は、その不可解な状況の、時には悲痛な、時には妙に陽気なレポートである。

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