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探偵小説は[自殺]するか

探偵小説は[自殺]するか

 フレイドン・ホヴェイダは、ピエール・ヴェリーのあるミステリについて、《推理小説の自殺だ》といっている。ヴェリーはあらゆる殺人の動機をあげ、そのどれにも該当しない[素敵な動機]を実作化してみせると見得をきった。しかして、その回答はーー。[動機なき殺人]の[超・動機]は、しごく月並みなものでしかなかった、というわけだ。単純な批難というより、もっと共感の入り混じった否定論なのだが。
 これは、最も犯人らしい容疑者がやっぱり犯人だった、という型によく似ている。こうした発想が出てくる[動機]は、意外性の逆を狙うといった素朴なものだ。探偵小説の愉しみのヴァリエーションの一つだ。
 しかし、ひるがえって考えてみればーー。比喩をそのまま流用するなら、[自殺]しない探偵小説ほど興醒めなものは他に見当たらないだろう。つまり、形式への懐疑、破壊意志などといった契機を、たとえ一欠片にしろ含まない探偵小説は、凡庸になるしかない。自己否定はーー探偵小説の本質であり、その発展に不可欠な動力要素だ。
 ヴェリーの『サンタクロース殺人事件』(一九三四)は、探偵も犯人も、どちらもサンタクロース、という仕掛けで成り立っている。しかも、舞台は、吹雪で外界から遮断された[閉ざされた]寒村。
 

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