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網内人 もう・ナイ・人

網内人 もう・ナイ・人

 陳浩基『網内人』(二〇一七)。玉田誠訳、文藝春秋2020.09
 これは、三つの点で「ああ、書いておけば良かった」に引っかかってくる作品。三点セットというのは、只事ではない。ただし、残念度でいえば、★一個になる。『NADS21』刊行後に出た作品では仕方がない。
 インターネットは人間を変えた。
 もはや、人間はネット内(網内)でしか生きられない。外に生きる場処は、もう・ナイ。
 
 ① 同じ作家の短編「藍を見つめる藍」について。289-290P ホフマン「従兄の隅窓」ーーポオ「群集の人」ーーウールリッチ「裏窓」の系譜に、このネット・ストーカーの話があると書いた。「藍を見つめる藍」の発展的続編が『網内人』であるので、この関連を加筆せねばならない、と。
 ② 「0・2・5 香港探偵小説の逆走」38-39P とにかく『網内人』は、探偵小説であると同時に、それと排除しあわないかたちで、香港の現状を激しく深くメッセージする抗議のレポートでもあること。
 ③ 「G・12」全体(1157-1172P)。これが最大。この部分は、覚書ていどのつもりで書いていたら、つい長くなってしまった。ネット社会の不気味な変容について、例示作品はない、という前提で、いくらか一般論的に書い。けれど、今なら『網内人』を手がかりに、もう少し深く展開できる、と思った。もう・ナイ、のだ。惜しかったね……。
 傑作というには、欠点は多い。作者が苦労して書いているところは、繰り返しではないけれど、説明があちらこちらとくどくなって、読むのも疲れさせられる。後半にくるJ・ディーヴァーもどきの「ドンデン返し」は、不要じゃないかとも感じる。しかし、欠点を差し引いても、この作品の価値は変わらないだろう。
 翻訳では「ネット民」の言葉があてられている、[人類の変容の新しい不気味なかたち]。この問題にこれほど正面から向き合った作品は、初めてではないか。
 ネット・ピープル、ネット大衆。
 ネットによる「殺人」(大量の書きこみ攻撃によって被害対象者が自殺する)が話題になる。ここでは、加害の意味も、殺人の意味も、犯罪の意味も、すべて変容している。従来の法の基準、道義の尺度がまったくあてはまらない。人間が変貌し、人と人の関係がワープしている。ネットは人間の可能性を偉大にもすれば、逆に、最悪にもおとしめる。その振幅の極端さに、われわれ自身が追いつかなくなっている。テクノロジーはますます発展していく。人間を呆然とさせる[落差]も、それにともない拡大するしかない。
 ネット・ストーカーの話は、ミステリ作家にとっては、ごく手軽な題材としてあつかわれがちだ。被害者目線をよそおって描けば、そこそこの話に出来上がる、とか見込みがつく。想像力も冒険心もいらない。だが、それでは、一般的なSNSのコメントと同じ表層的なものに終わるだろう。
 『網内人』の探偵は、作者も認めるとおり、フランス式のルパン型だ。犯罪を退治するために、自らも犯罪を厭わない。犯罪の意味を固定化する[道徳観]などからは自由なのだ。そして犯人の一人は、金と出世と女のことしか念頭にないバルザック的人物だ。《パリにおけるいっさいの情熱は二つの言葉に還元される。すなわち、金と快楽》(バルザック「金色の眼の娘」)
 道路が狭くて車を買えない香港人はスマホ購入にかたむき、一人あたり2・5台の普及率だ、という観察が小説のなかにはある。しばらく前の「民主化運動」のうねりは何だったのか。ーー答えは、この小説の端々に散らばっている。
 そして「もう・ナイ」人間世界にも。

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