『暗黒事件』覚書2
八月四日記事のつづき
◎バルザックの『暗黒事件』(一八四二)は、『人間喜劇』のなかで、「政治生活情景」に分類されている。政治の意味合いは、バルザックの時代において、想像を超えるほど生々しい。この作品には、歴史ロマン、陰謀小説といった分類もついてまわる。『人間喜劇』には、あってしかるべきなのに、言語化されなかったカテゴリがある。「探偵小説情景」である。したがって、バルザックのこの分類に該当する作品群は「原〈ur〉探偵小説」と定義されるだろう。
◎都市の群集〈マルチチュード〉が呼びおこす、得体の知れない恐怖。そこからポオは、遊民探偵の像を抽出してみせた。バルザックは、その途上にある混沌を蒐集してまわったが、抽象論理の呈示までは到らなかった。彼の探偵小説は、原始的な原型のままだ。
◎『暗黒事件』の場合、上述のような考察を妨げているのは、[密偵=探偵]の人物像の解釈だ。後代のわれわれのほうに、混同し誤解している側面が大きい。ベンヤミン『パサージュ論』も、その混同の一例だ。ポオの探偵と『暗黒事件』などのバルザック作品の密偵とは、別次元の存在だ。
◎『暗黒事件』の異様に長い序文(一八四三)で、バルザックは、作品攻撃にたいして激しい駁論をくわえた。作者は、作品モチーフを「私生活を破壊する政治警察とそのおぞましさ」の告発だと、端的に表明した。おぞましさは、警察大臣フーシェという存在にある、と。バルザックの生きた時代は、ヨーロッパ史にあっても、特別に凝縮された激動期だった。彼の政治信条がどの党派に属していたものであれ、彼が憎悪したのは、無定見の機会主義者であり日和見主義者であったことは、間違いない。こうした卑劣な人間タイプは、しばしば警察組織に上昇の途を見いだす。レーニンの前衛党が、ジェルジンスキーを必要としたようにーー。バルザックの政治警察観は特異なものではない。それと見事な対応をみせる記述を『ヴィドック回想録』の第三〇章に見つけることが出来る。ヴィドックは「政治警察は無用の存在だ」と断言している。バルザックは、『浮かれ女盛衰記』において、ふたたびそのテーマに挑戦する。
◎現代の探偵小説にあって、探偵と密偵はほとんど区別されていない。これは、作家や読者の誤解によるものとばかりはいえない。探偵小説の発生期である一八四〇年代への分析・研究が不充分かつ一面的であったことから連綿とつづいている。さかのぼって検証しなければ、誤解が正されることはない。
コメントを送信