×

秘密の『パリの秘密Ⅲ』シューはポオを剽窃したか

秘密の『パリの秘密Ⅲ』シューはポオを剽窃したか

昨日のつづき
あまり続いていないけれど……。

 『パリの秘密』第八部ラ・フォルス監獄で語られる一挿話にたいして、ポオは「モルグ街の殺人」のパクリではないか、と書いている。この事実は、比較的よく知られているだろう。事の性格上、この件でポオに加担するには、細心の論議が必要なのだが、それは、活字本の完成稿にゆだねるとして、ここでは、結論だけを乱暴に書きつけておく。
 然り。シューはパクッたのである。
 しかし、その主張をふくむポオの『マルジナリア』が全集などによってよく読まれているのに比して、『パリの秘密』の該当する箇所は、あまりにも識られていない。『大菩薩峠』ではないが、『パリの秘密』もまた、常識はずれに長すぎて、全部を読まなくてもいい大衆小説という[幻像]を確定してしまっている。この件は、結論のまた先を、前奏としてつけ加えておけば、シューによる[二次利用]をどう評価するのであれ、二人の作家の同時代性こそが最も究明されるべきテーマである、ということになる。
 ポオの『パリの秘密』評は、書き出しのごくお座なりな賛辞、そして、大部分を占める英訳本への批判から成り、結びの数行ほどで、上記の疑念を記している。
 
 併し私が驚いたのには、もう一つの理由がある。それは、此の話の中の或る事が、私の書いた話から取ってあるということである。
 
 これは、ほとんど断定だ。その断定に『パリの秘密』の一挿話の要約がつづくのだが、引用はしないでおく。いくらか誤読であり、誤読をみちびいた要因は、ポオの思いこみからくるのか、英訳本の不正確さの所為なのか確認できないからだ。さらに、ポオが心配したのは、自分のほうが「剽窃家」の汚名をあびないかという可能性だった。これは、被害妄想とかではなく、『パリの秘密』の作者のほうがずっと高名だった当時の状況からすれば、無理からぬ反応だ。ポオは、あらためて「モルグ街の殺人」の発表年月を明記して[自分のほうが先だ]と弁明せざるをえなかった。そして、この文章の末尾は、いっそう微妙なニュアンスをまとっている。
 
 A 私は勿論、シュー氏が私の話を翻案したことを、一種の婉曲な讃辞としてしか見る気はしない。
 B それに、二つの話が似て居るのは、全く偶然なのかも知れない。
(引用は、吉田健一訳 『ポオ全集Ⅲ』新装版 一九七〇年 691P)

 Aは、これは、剽窃の被害にあった当事者の反応として、よくあるパターンだ。ハラのなかは煮えくり返っていても、寛容をよそおう。しかし、Bは、まるで当事者ではないかのような観測だ。いや、邪推すれば、剽窃者による巧妙で姑息な自己弁護にすら読めないこともない。パクられたと感じているのか・そうでないのか。どちらとも取れるこの揺れ動きは何に起因するのかーーという一抹の不審は残らざるをえないのだ。
 『パリの秘密』第八部で、大猿が人間を剃刀の一閃で斬り殺すエピソードは、かなり凝った手法で語られる。シューは自分の小説を、大衆向けの啓蒙書とも心得ていたので、ここは「読者諸君を、我国でも屈指の陰気で不気味な場処、ラ・フォルス監獄に案内いたそう(心して読むべし)」といった高調子で展開される。まず「激辛ピリ酢〈ピック=ヴィネークル〉」の異名をとる囚人。彼は手品師で、噺家。講釈師のような達者な噺の数かずで、囚人たちを慰労し、小銭を稼いでいる。ストーリーは、現代風にいえば、刑務所小説として進行し、ある新参者(冤罪で獄につながれた)を「骸骨」と仇名される牢名主の配下が、残酷なリンチにかけようと狙っているところ。「ピリ酢」は、その計画を阻もうと、噺を聞かせつつ、囚人たちの殺気だった熱を冷まそうと画策する。彼が語るのは、十五人の浮浪児と動物を使った見世物師親方が一人の子供を虐待しぬくが、天罰が当たって大猿に殺される破目になる、という説話ーー囚人たちへの教訓噺だ。(説話の細目を記しておくほうがいいが、ここでは省略する)。
 親方は鎖でつないだ猿に剃刀の使い方を示し、こうやって人の喉笛をばっさりやるのだと、教える。相手の小僧も少し離れたところにつながれている。親方は泥酔して見境なくなった状態。絶体絶命。小僧は、夢のなかに見る金色の蝿に助けを求める。すると、本当に金色の蝿が現われて、親方の目玉に必殺の攻撃をしかける。泥酔の極にあった親方はたまらず、ひっくり返って、猿に突き当たりそのまま昏倒してしまう。突き当たられた猿は怒り狂い、(鎖につながれたままだが)親方に馬乗りになって、さきほど教えられたとおりに剃刀の一閃を……。
 ここで、作者は、「ピリ酢」の噺の結末を聴いた囚人たちが熱狂するすがたを描く。噺家は「まだ終わっちゃいねえ」と繰り返す。親方殺しは、浮浪児たちと動物たちの解放・勝利だ。それを祝う歓声が彼らの住んでいる街頭にこだまする……。啓蒙作者シューとしては、当然のフィナーレなのだ(まだ、連載小説はつづく)が、われわれとしては、その直前の一点景に注目したい。ーー「ピリ酢」は感動する聴衆の熱気を冷ますように、「わしは、親方が悪いことをする前に部屋の扉を締めて錠をおろしたことを言わなかったかな」と、注釈する。彼はそのことを言っていないし、誰も気にとめはしない。作者が、ここで、注意を引きたかったのは、一点だ。ーー親方は密室をつくったのだ。結果は、彼自身が思いもよらず被害者になってしまったのだが。
 残念ながら、彼がなぜそうした行動を選択したのかは、作品のなかで解明されていない。作者にどんな明確な意図があった(なかった)のかは、わからない。錠をおろしたのが、泥酔する前だったか後だったかも、わからない。作者は書いていない。だが、描かれた情景の意味は、作者の露骨な説話趣味にもかかわらず、明白だ。ーーこれは、密室殺人だった。
 なぜシューは密室殺人(その状況)を描いたのか。深い要因は、『パリの秘密』そのもののなかには見つけられない。「モルグ街の殺人」の投影なら、ポオの眼をもってしなくても、容易に見つかるのだ。
 思うに「モルグ街の殺人」の結末は、かなり素っ気なさすぎるのではないか。そこに不審をとなえた説をみたことがない。デュパンのような名うての懐疑家が、あの船員の語る供述を信頼してしまった理由について、読者ははたして充全の説得性を与えられただろうか。規格型の短編小説にあって、あれ以上に長い解決編は論外であった。その点は何ともいえない。あるいは、船員が探偵デュパンに語らなかった(隠しとおした)物語を想像するところから、新らたな「殺人街の殺人」が語りだされてくる裂け目に、われわれは立ち合っているのかもしれない。
 
 説明不足だが、仮説を一つ出して、いったん区切りにする。
 引用文Bを結びの一行に置いたポオの真意について。ーー「モルグ街の殺人」には、動物による殺人といった類似する実在の事件があったのではないか。ポオもシューも、それにインスパイアされて、作品化を試みた。その手法も抽出の仕方も対照的だが、ポオには、自分のほうが優越しているという矜持があった。それは、長い歴史のうちに判定がなされた事柄でもある。奇譚として消化し、説話的教訓として再生を試みたシューの方向は、すみやかに古びていくしかなかった。
 といって、ここで、ポオの正当さを指摘してみても益はない。動物殺人という一個の特殊事件をめぐって、二人の作家が遺した、対照的ではあっても、きわめて近似値に位置していた創作化の意味、それをあらためて検証してみなければならない。
 

コメントを送信