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バルザックはプロレタリアートを描いたか

バルザックはプロレタリアートを描いたか

 ルイ・シュヴァリエ『労働階級と危険な階級―19世紀前半のパリ』(一九五八)は、基幹的な参考文献だ。
 しかし、なにしろ、統計図表が膨大に多い。そのうえ、文体が華麗すぎて、苦労する。一回通読したきりでは頭に入りにくい。二回読んだが、まだ取りこぼしている観点があるのではないか、と心細くなる。
 序説のところ。書き出しの一行がーー。
「社会史の研究は、文学作品という証言を拒絶する」
 拒絶? こういう擬人法の用法があるのですか。
 ーーこれは、まあ、あとのページを丁寧に読んでいけば、すんなりと了解がつく。べつだん深遠・難解な事柄をのたまわっているのではない。四角を五角といいかえるようなレトリックを自然と身につけた論客なのだと納得すれば、つづく部分にも対処できる。要するに、原理的バルザック主義者なのだ。
 シュヴァリエは、シューの『パリの秘密』とユゴーの『レ・ミゼラブル』を「受動的な作品」だと断定している。これは、批難(彼らはバルザックに及ばない)と早合点してしまいそうだが、違う。かえって最高度の評価なのだ。「受動的な作品」とは、作家が作品の隅々まで完璧にコントロールできなかった作品、というそのままの意味で使われている。逆説的な評価なのだ。本書の根幹的主張の一つなので、よく咀嚼につとめねばならない。幸いにして、このテーゼは、彼らの作品に即して、繰り返しくりかえし、数えてみると六回あまり、分解的に説明されている。六回もスルーして済ますことはあるまい、と安心させてくれる。人の善い大学教授の説法だ。
 ーーつまり、シューやユゴーは、一九世紀前半の激動フランスの証言として作品の細部をさしだした。肝腎なのは、彼らの作品創造の価値ではなく、作品を時代のトータルな媒体となしえたことだ、と。
 とくに、『レ・ミゼラブル』論の考証の綿密さと、そこから引き出されてくる論述の明快さに、深く教えられた。一般の文芸評論とは異なるが、それ以上の明晰さで、一つの文学作品の栄光と限界とが証明される。わたしは、つまらないことだが、同作の四人組の小悪党が出てくる場面の低レベルを、部分的であるにしろ、ずいぶん残念だと感じていた。シュヴァリエは、ユゴーの描く小悪党がなぜ不活性のキャラクターにしかならなかったかの理由を、周到に多角的に論証してみせる。なるほどそうだったのか、と盲をひらかれた。
 彼は、『レ・ミゼラブル』を、手稿状態のヴァージョンとの比較検討から、ユゴーが前世紀に利用した文献の調査(どのように、大作家は資料を取捨選択したのか)までふくめて、創作過程を徹底的に解剖していく。それが、危険な階級と労働者階級の共通性と背反を明らかにするという彼のテーマに関わってくるからだ。一九世紀の偉大な社会小説は、今なお何らかの指針を提供してくれるのか。提供してくれるとすれば、どの要素をもってしてなのか。
 
 シュヴァリエは『労働階級と危険な階級』以降の作品では、統計図表を多用するスタイルはとっていない。華麗なレトリックも慎み、読みやすくつくっている。『三面記事の栄光と悲惨―近代フランスの犯罪・文学・ジャーナリズム』(二〇〇四)という、没後の遺著は、講義ノートの集成のようなものであり、拍子抜けするほどストレートでわかりやすいが、彼の研究方法のガイドにもなるだろう。バルザックを引用する手つき一つとってみても、最初の本にあった狷介さ(「金色の眼の女」から、その内容とはあまり関係なく、大量に抜き書きしてくる)は、ずっと和やかな当たり前の手法になっている。もちろん、編者がつけたタイトルは、バルザックの最高作へのあからさまなオマージュだった。
 プロレタリアートを嫌悪していたバルザックの作品テクストから、プロレタリアート「支持」の証拠言説をどうやって見つけてくるのか?
 これは、まことに興味津津の命題だ。
 シュヴァリエは、それをやってのけている。その例示をしてみたいところだが……。
 あまりに長くなりそうなので、また明日。
 
 

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