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寓話作家カミュ

寓話作家カミュ

 花田清輝は、カミュの『異邦人』について、童話の桃太郎と同様のお伽噺だが、そのバカバカしさは桃太郎話を上まわる、といっている。植民地アルジェリアで現地人を殺したフランス人が同じフランス人の裁判官によって死刑判決を下される、という話は《まるで、鬼が島で、鬼を殺したというので、お供の犬や猿や雉が桃太郎によって、死刑にされてしまうようなものではありませんか》(「氷山の頭」一九五二年二月)と皮肉っているのだ。
 この文章は、元が匿名批評として書かれたものであり、批評の鋭利さよりも花田の得意芸である嫌味の切れ味だけが目立つので、歴史的な文献として引用するのは、公平を欠くことかもしれない。何より、文脈をたどると、不条理な寓話を問うてそのグロテスクを浮き彫りにしたカミュの逆説的な意図を、花田がまったく理解せずに(あるいは、理解できないふりをして)、子供向けのお伽噺より幼稚だと論難しているだけのようにも読めてしまう。
 この一文の前半の力点は、植民地問題を抜きにして『異邦人』を鑑賞する日本の文筆家たちの[論争]を揶揄するところにあるので、粗雑な論法を用いたのだろう。花田は、同じ論争にふれて、べつの報告では、《誰一人、作中の一人物である、犬の如く射殺されてしまったアラビア人の立場から発言し、そういう立場から、植民地における裁判の描写の文学的虚偽を指摘しなかった》(「新日本文学第六回大会報告集」一九五二年九月)と断定する。
 ここに述べられたカミュ評価を、当時の左翼(民主主義的)文学者たちが共有していたとは思えない。花田の指摘は、カミュの日本的受容の貧相な水準を抜きん出ていたが、現在となっては、これもまた一つの紋切り型思考から抜け出すことが難しい。ポストコロニアル文学論なるものが、その紹介者らによって、いくらかでも血肉化しているならばーー。アルジェリア作家カメル・ダウドによる『ムルソー再捜査』が現われるのは、二〇一三年だった。 
*引用は『花田清輝全集四』一九七七年 講談社 359、441P

カミュは何の寓話を語ったのか。
これは覚書なので、結論部分のみを書いておく。

カミュは、フランスの敗北について語った。
歴史家のマルク・ブロックは『奇妙な敗北』という証言を残した。レジスタンス闘争で捕虜となり、銃殺されたブロックは遺書としての証言を遺した。
カミュは、『奇妙な敗北』L’Étrange Défaite. Témoignage écrit en 1940 に呼応して『異邦人』L’Étranger を書いた。
つとに有名なその書き出し

きょう、ママンが死んだ。もしかすると昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。
(窪田啓作訳)

は、次のような[真意]を寓喩したものだ。

きょう(一九四二年六月一四日)、フランスが敗北した(パリ陥落)。もしかすると昨日かも知れないが、私にはわからない。新聞でみた。

寓話作家としてのカミュの卓抜さ。
では、彼の戦後作品『ペスト』は何を喩えたものか。
疫病は何の寓喩だったのかーー。
いうまでもないだろう。
ーーブラジャックは死刑、ドリュ・ラ・ロシェルは自殺、セリーヌは石をもて追われた。対独協力派に未来はなかった。だが、戦後フランスの凱旋は、近い過去をレジスタンスだったかファシストへの屈服だったかの両端に単純化してしまった。カミュの寓話もまた、その一方へ加担するものであらざるをえなかった。奇妙な凱旋に痛烈な異和感をしめしたのはジュネだけだった。
今でもカミュは人気作家だ。コロナ時代の幕開けに話題となった彼の『ペスト』がそのことを立証した。なぜダニエル・デフォーの同名作品のほうが脚光を浴びないのか。カミュは預言者などではない。小粋な寓話作家であり、それ以上の存在ではない。

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