バルザックのヴォートラン
バルザックはヴォートランを「人間喜劇のなかで最も丹誠こめて構想された諸人物の一人」と呼んだ。そして実際彼は自分自身の本然の熱情全部をヴォートランに傾けたのであつた。成程彼は、穏健な読者の気に入るやうにヴォートランを断罪するかに見せかけた。だがそれにしても汎ゆる道徳的保留の背後には、明かに同情の気持が感得されるのである。ヴォートランは「奇怪なほどに美しい」。[…]
かくして最後にヴォートランは「一切の人間力を要約せる」悪魔的な天性の典型として描き出されてゐる。エネルギーの、あらゆるエネルギーの壮大な集約体ーーそれをいつかはバルザックはその作品のうちに実現しなければならなかつた、ーーさればこそ彼は、ヴォートランを、この反逆者を、この超人を、創造したのだ、さればこそ彼は、ヴォートランを蠱惑的な悪の天使として描いたのだ。ヴォートランは、彼の芸術家的空想と彼の権力意志との愛児〈まなご〉ーー彼自身の本質の悪魔的な対照像である。
ーー『バルザック論』E・R・クルチウス 一九二三 野上巌訳 河出書房 一九四二 154-156ページ


寺田透によれば、この高名な論考は、バルザックをあまりにもきちんと整理しすぎているところから、かえってバルザックの真正な像にヴェールをかけてしまう傾きがあるという。たしかにその点は否定できないとしても、引用した第六章「権力」の結語の部分は、クルチウスの整理好きを突破して激しい、と思われる。
この本は、一九九九〇年に新訳が刊行されているが、「昭和一七年」に実現した旧訳の熱気を、あえて例示してみたかった。


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