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バルザックの『暗黒事件』

バルザックの『暗黒事件』

 今年(一九五九年)は、松川事件、砂川事件等の裁判が行われ、裁判に関する報道批評その他がジャーナリズムで取上げられて、国民一般が並々ならぬ関心を示した。われわれは、発表されたものの中には間違ったものもあって、迷惑したこともあるが、各人は立場の相違により、理解の仕方も違うものであり、仮令間違ったものでも、無関心でおられるよりは、論議を受けること自体之を歓迎する気持で一杯である。
 八月十日附朝日新聞朝刊には、松川判決前夜の記事として、井本公安部長「感想はいえんね」と題し、その前日バルザックの『暗黒事件』を読んで過した、明日の感想はあるけれど発表しない旨の記事が出ている。東京創元社・編集部から『暗黒事件』についての感想を求められたのは、左の記事からのことであると思う。

ーー「『暗黒事件』の背後」井本台吉 『バルザック全集6』月報 一九五九・十一

 『暗黒事件』は、一八〇三年の帝政下フランスを舞台にした歴史ロマンであり、警察小説でもある。その第三部は、一種の暗黒裁判を描いたリーガル・サスペンスの先駆とも読める。そこに続くエピローグにおいて、三十年後の「謎解き」が明らかになると、物語は俄然、探偵小説としての奥行きを燐光のように放ってくる仕掛けだ。フーシェ(実在の人物)とその配下の密偵コランタン(バルザック小説の要)が暗躍した構図のなかに、歴史ロマンの世界がぴったりおさまってくるのだ。
 さて、引用した文章の書き手は、最高検察庁・公安部長の肩書(当時)を持つ。日本の暗黒事件といった物語が構想されるなら、そのモデルとなっても不思議のない人物だが、当の『暗黒事件』への感想を求められて、エッセイを寄稿しているところが興味深い。井本は、文学的教養も身につけた優秀な国家官僚として、文学全集にも場違いでない短文を無難に提供している。ーー暗鬱きわまる話なれど、ヒロインに焦点を当てるなら、じつに大胆で凛々しい読後の清冽さをもたらせるものだ、と。ついでにいえば、事件を暗黒にした策謀は政治警察の責に着せられるべきである、と。それは立場上、当然の論理なのだが、困るのは、つづく数行で、筆者がこのロマンの探偵小説的な構図を、あっさり無粋にネタバラシしてしまっていることだ。
 ここに立ち止まるなら、バルザック探偵小説のかなり原始的な未成のありようが透視されてくるはずなのだが……。まあ、現職の公安検察庁幹部による寄稿文を見つけたことで、ひとまずは収穫としよう。

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