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スイスの推理小説

スイスの推理小説

「スイスの推理小説」 新本史斉

……人口800万の小国である。
いったいメイド・イン・スイスの推理小説などそもそも存在するのだろうかと、思われる向きもあるかもしれない。
しかし、「国際都市」「高級ホテル」「スイス銀行」「秘密口座」……と高官に流布するイメージを列挙していけばわかるように、実のところ、スイスという国は、ミステリーを紡ぐ材料には、およそ事欠かない、資本と人のモビリティーに富んだ場所なのである。

ミステリーの枠を越えた本格的文学作品をお好みの読者には、フリードリヒ・グラウザー(1896-1938)の作品をお薦めしたい。
毎回、安葉巻とベルン方言がトレードマークのシュトゥーダー警部が登場するグラウザーの小説は、ちょっと見には、(マルティン・)ズーターの作品以上にオーソドックスな探偵物の定型にはまっているように見えるかもしれない。
しかし、実のところ、グラウザーにとっては「推理小説」という枠組みは、偶然に翻弄される人間の生を描き出すためのアリバイにすぎなかった。……


20世紀初頭スイスの精神病院の異常な世界が描かれる『狂気の王国』、冒頭からスイス方言、フランス語、ドイツ語が飛び交う中、犯人を追っていたはずの警部自身がアフリカの外人部隊に潜入するはめになる『砂漠の千里眼』
チューリヒでのダダイズム運動に最年少で参加して、以降、薬物中毒、刑務所、精神病院、炭鉱労働、アフリカ外人部隊を我が身で経験したグラウザーの推理小説は、ヨーロッパ近代の背後に広がる闇をゆく果てなき探索の記録なのである。
博覧強記の文人にして、稀代のドイツ文学翻訳者でもあった種村季弘が人生最後の数年を、グラウザー作品の翻訳に捧げたという事実が、何よりもこの類稀なるアウトサイダー作家に秘められた可能性を証していよう。
なお、現在ドイツ語圏で最も権威ある推理小説文学賞は、彼にちなんでフリードリヒ・グラウザー賞と名づけられている。

『スイスを知るための60章』スイス文学研究会 2014.5 明石書店 189p

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