『浮かれ女盛衰記』について
バルザックをもっとも敬重した人間のひとりであるアランは、もっとも多様性に富む複雑豊饒な人工世界として、と同時により純化され、より高分子された現実として「人間喜劇」を扱(った)[…]
何だかこの頃は、易しい分りやすい文章を書くということが文章道の最高理念みたいなことになっているので、(より安逸な読み物を求めるたぐいの者は)余程しっかり腹をきめないとバルザックの小説にはついてゆけまい。ということは逆に、読書ということが本来どんなに誠実な骨折りを必要とする仕事であるか、その仕事に耐えて一歩一歩難所を征服して行くものにはどんなに広くかつ多様な、たのもしい風景がひらけるか、ということを教えるのに、これほど恰好の小説家はなく、また忍耐づよく読めばその作品は面白いにきまっているのだから、これほどその訓練のために便利有効親切はないということになる。[…]
無論、バルザックは十九世紀フランスの画幅を描こうとしたのである。それは「人間喜劇」の総序にもしるされた通りだが、その世界がバルザックの死んだのちのフランス十九世紀を予言していることは多くの人によって指摘されている通りである。[…]
小説をかつて書こうとした人間のうちで、バルザックほど善良だった人間はまれなのだから、かれがわざと分りにくく
しようとしている箇所など、広い「人間喜劇」の世界に恐らく一箇所もないだろう。しかしかれには、明晰で素直なことを理想とするフランスの文章規範につねに従うにはあまりに強大な夢想がありすぎた。そのためにかれの言葉が飛躍し、攣縮し、熱して法外に膨れ上がることはしょっ中で、趣味のいいフランス文学史家たちによってこれは長らく眉をひそめられて来たが、その積極的価値を信じることが実は必要だし、アランの文体論はそれを作家の勇気の現われとしてはっきり認めている。こせこせけちをつけたがる人間にはバルザックはその面白い正体をあかさぬだろう。
ーー「バルザックを読む人に」寺田透 『バルザック全集8』月報 一九五九
これは六十年前の文章だが、現在では、小説を読む者の「読みやすさ」への要求は、もっと苛烈ないきおいを増している。一読、とっつきが悪ければ、それを制作側の技倆不足と断じて「こせこせケチをつける」ことを権利とみなすような傾向があふれ返っている。自らの読み能力の未熟さになど考えもいたらない。これはネットの感想文などにとどまらず、活字の領域まで浸蝕してきている。
バルザックは、こうした読書環境の劣悪化の被害にさらされやすい。さらにいえば、寺田透の翻訳した唯一無二の『浮かれ女盛衰記』は、「読みにくさ」を作者に責任転嫁する症例の高位にくるバルザック作品だろう。
小説を読むことは、異種格闘技のような体験だ。むろん多くの小説は怠惰に読み流され読み捨てられる仕組みのなかで消費される。バルザックなど少数の例外だけが、打てば血の吹きでる格闘を読む者に強いる。とりわけ寺田訳『浮かれ女盛衰記』は、そうした稀有のテクストだ。寺田訳を悪訳とする異見もあるだろうが、細かい点での粗探しをいくら積み重ねても、全体的な評価を変えるにはいたらないと思える。これは、新訳の、タイトルも一新され、小見出しをつけ、段落も多く取り、読みやすさをうたった『娼婦の栄光と悲惨 悪党ヴォートラン最後の変身』と読み較べてみれば了解できるはずだ。名作の「読みやすい」新訳に関して、一概に否定することはしたくない。ただ、控えめにいって、シュールレアリスム系の詩人はバルザックに似合わない、という違和感が強く残った。
『浮かれ女盛衰記』は統一感ある作品とはいいがたい。四部構成の前半と後半とでは、別の話と受け取るほうが自然だ。シビレエイ(電気クラゲ)と称される遊女エステルの物語が全篇をおおっているのではない。新訳のサブタイトルが生かされる理由だが、その死神瞞しのヴォートランが真骨頂を顕わすのは、第四部にいたってからだ。作者の側における混沌が解決されないまま、物語を紛糾させている。そして、寺田訳の場合、これに加えて寺田自身の晦渋な文体の地が時折り出てきて、こちらを怯ませる。二重三重の人間喜劇驚天動地のスペクタクルだ。
だが、絶対に否定できないのは、翻訳者と原作者の格闘の凄まじさだ。換言すれば、これに類するレベルに達しないバルザック翻訳は、他の市場小説一般と並べられても致し方ないだろう。寺田にとって『浮かれ女盛衰記』の訳業は、戦後文学者としての第一等の仕事だった。ーーこの点を確認しておく。
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