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『判事と死刑執行人』フリードリヒ・デュレンマット

『判事と死刑執行人』フリードリヒ・デュレンマット

『判事と死刑執行人』フリードリヒ・デュレンマット

ベアラッハとはいかなる人物か? 彼は長年、外国で生活し、コンスタンティノープルで、つづいてドイツで、刑事として頭角を現した。ドイツ勤務最後の地はフランクフルト・アム・マイン、そこの刑事警察の長を彼は務めたのだが、ドイツの政権をナチスが握った一九三三年にはすでに、故郷のベルンへ帰って来た。彼はベルンを常づね「わが黄金の墓場」と呼んでいたが、こんなに早ばやと舞い戻ったのは、あながち、故郷愛のため、というわけでもなかった。そうではなくて、実は彼がドイツ新政府のある高官に平手打ちを喰らわしたからであった。当時フランクフルトでは、この暴力行為がたいへんな話題となった。ベルンではどうであったか? その評価は、ヨーロッパの政局しだいでさまざまに揺れた。

……鍵はかかっていなかった。チャンツは中へ入る。玄関の正面にはドアが半開きになっていて、そこから一条の光が洩れている。彼はそのドアに近づき、ノックをする。応答はない。ドアを大きく開いて、覗きこむ。そこは広間で、周囲の壁は書架がぎっしりだ。そして寝椅子〈カウチソファ〉で、ベアラッハが横になっている。
警部は眠っているが、冬外套に身を固めているところを見ると、ビール湖畔へ出かける用意はもう出来ているようだ。片手に本を持ったまま、静かな寝息を立てている。どうすべきか、チャンツは迷った。眠る老人を前にして、無数の書物にとり囲まれているのは、なんだか気味が悪かった。
チャンツは注意深く、あたりを見まわす。広間には窓はまったくないが、どの壁にも扉が一つずつあって、そこからさらに別の部屋へ通じているに違いない。広間のまん中には、大きな書物机がある。そこに目をやったチャンツは、ぎょっと身じろいだ。

『判事と死刑執行人』フリードリヒ・デュレンマット 1951
平尾恒三訳 2012.5 同学社 11、44p

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