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『ベルリンに一人死す』ハンス・ファラダ

『ベルリンに一人死す』ハンス・ファラダ

ハンス・ファラダ『ベルリンに一人死す』は、警察資料に基づいた実録ではあるが、細部に関しては、作者の想像力がはたらいている。
著者は前書きにいう。
《この物語は、一九四〇年から一九四二年まで非合法活動をおこなったベルリン在住の労働者夫妻に関するゲシュタポの文書に、大まかに従って描かれています》

平凡なドイツ帝国市民にして、ナチス支持者だったハンベル夫妻は、肉親の戦死をきっかけにして、反ナチス抵抗運動に身を投じる。反戦・反ナチ・サボタージュを呼びかける手書きのハガキを公共の建物などに置く、という方法を取った。二人だけで行ない、二年余のあいだに、三百枚近いハガキを、ベルリンに撒いた。だが、ゲシュタポの包囲網から逃れる事は出来なかった。逮捕され、死刑執行された。
事件が一般に知られるのは、占領期に属する。
ファラダの脚色による大きな変更は、夫妻を行動に立ち上がらせたきっかけを、彼らの一人息子の戦死とした点だ。
監視と暴力が人びとを窒息させる社会において、うわべは従順な公民の顔を保ちながら、秘密の「抵抗」活動を命がけにつづける、彼らの緊迫した日常は、ファラダによって見事に再現された。


この作品が成立するにいたった経緯は、ベルリン占領にはじまっている。ソ連占領地域にいたファラダは、亡命先のモスクワから帰還した詩人のベッヒャー(後に、東ドイツの文化相になる人物)と知り合う。ベッヒャーは、ハンベル夫妻の調書や裁判記録をファラダに提供し、その小説化を依頼した。ファラダは、ただちにその依頼には応えず、かなりのためらいをみせたという。
作品を書き終わって三ヶ月後、ファラダは五三歳で死んだ。創作余力のすべてを、この作品に注ぎきった、ともいえよう。
彼はナチス時代の人気大衆作家だった。
迎合したのではなく、その人気ゆえに、ナチスにとっては目障りな存在だった。
一般に、この時代にドイツ国内にとどまったドイツ作家は、そのことだけによって低くみられがちだ。「屈服」せずには、書きつづけられなかった、とみなされる。あるいは逃避的な作品によって延命をはかった、と。そうした試みである『あべこべの日』は、邦訳されているものの、ファンタジーとしてあつかわれ、困難な時代への興味をかきたてるには到らなかった。
ファラダが重度の薬物中毒とアルコール依存とで生命を縮めたことも、彼への公平な評価を妨げたのだろう。
ナチスへの断罪の一方、トーマス・マンなどの亡命作家たちに(のみ)、ドイツ文学の良心を見つけたがる風潮は動かしがたいようだ。まあ、こうした風潮を先導したドイツ文学者のある者が、ナチス「文学」を礼賛した前歴を持っている、と告発されることもあった。正義はいつも多数派にあるという精神では、ファラダへの関心は抜け落ちてしまう。
ともあれ、つまらない固定観にとらわれず、この作品を虚心に読んでみれば、『ベルリンに一人死す』の現代性、つまり作品生命力の持続に打たれないわけにはいかない。彼は、一時代のドイツの、恐怖にみちた醜悪な社会を、どの作家よりも痛烈に描いた。
それが過去のものになっているとは、誰にもいえない。
わたしはドイツの戦後文学の翻訳を、日本の戦後文学との比較興味もあって、いろいろ読んできたが、悲しいことに、印象に残っている作品はごく少ない。『ベルリンに一人死す』一冊をうわまわるものはなかったのだ、と納得する。

ハンス・ファラダ(1893.7.21-1947.2.5)
『ベルリンに一人死す』ハンス・ファラダ 赤根洋子訳 みすず書房 2014.11


映画化作品『ヒトラーへの285枚の葉書』が、まもなく公開される。

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