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セルジュ覚書5

セルジュ覚書5

われわれはもはや何も感じなくなる瞬間まで、こんなふうに不滅であると感じるものなのだ。そして、われわれという小さな一滴が大海に戻っても、生はなお続くのだ。この点でこそ、僕の信念は君の信頼と一致する。明日は大きい。われわれはこの戦いを空しく熟れさせたのではなかった。この街はやがて、われわれの手によってでなく、われわれの手にも似たもっと強い手によって奪取されることになろう。他ならぬわれわれの弱さの糧としてより強固になったが故に、われわれの手より強くなった手によって。われわれが敗れるとしても、われわれとは限りなく異なり、われわれに限りなく似通った者たちが、10年、20年――時間は問題ではない――後の、同じような夕べ、同じ勝利をめざして、この大通りを降りて行くであろう。彼らは、おそらくは既に死んでしまっているわれわれのことを考えるであろう。われわれの血のことを考えるであろう。私は既にそうしている彼らの姿が見える。そして流れ出る彼らの血のことを思う。だが、彼らはきっと街を奪取するであろう。
――ヴィクトル・セルジュ『われらの力の誕生』1931 角山元保訳

この一節に関するかぎり、セルジュの詩情は同時期のプロレタリア文学にかなり近い。
中野重治の詩を想起させる。
ここでの「われわれ」は「彼ら」ではないけれど、同一視できないこともない。「大海のなかの一しずく」。
両者が等記号で結ばれるところに、いわゆるプロレタリア文学の根拠(幻想)があった。
そうしたロマンチシズムは、セルジュのこの一節にも混在している。
だが、彼らを「われわれとは限りなく異なり、かつ、限りなく似通った存在」と規定することによって、セルジュは、「われわれの」現存、そして「われわれの」自己犠牲を、過渡的なものとして限定した。
たとえ現下の敗北が必至であるとしても、まったく同等の意味において、究極の勝利もまた疑いない――と。

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