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セルジュ覚書4

セルジュ覚書4

スーザン・ソンタグは、セルジュの『トゥラエフ事件』について、多くのページをさいている。

彼は収容所群島の作家として、明らかにソルジェニーツィンの先駆という位置にある。
けれども『イワン・デニソヴィッチの一日』の作家が受けたような「名声」とは無縁だった。
セルジュの「不遇」は、『トゥラエフ事件』の作品的分析をとおして、ふたたびあぶり出されることになる。
モスクワ裁判を契機にした産された二つの作品が比較される。ケストラーの『真昼の暗黒』とオーウェルの『1984年』。
ある時代に流行した高名な二つの政治小説を、ソンタグは、要するに、わかりやすい「大衆小説」なのだと暗にほのめかしている。

セルジュのポリフォニー小説》のほうが《はるかに斬新》で、歴史的事象の複雑さにつりあった世界を展開しえているのだ、と。
「ボリフォニー小説」という読解は、わたしも『勝ち取った街』を前にして探り当てていた。そのことが、ページを先にめくっていくことの難渋さを倍増させたのでもあるが……。
「反ソ作品」の大衆性という問題に関しては、作品分析に特化する方向では容易に片づかないのだろう。
それは、ポスト革命社会における革命批判という永続的な課題に深く関わっている……。
セルジュは回想録において、スターリンの仕掛けた「党内抗争」の過程でトロツキー派が逆襲に転じ勝利しうる局面は確実にあった、とくりかえし書いている。だが、その機会は、トロツキーを新たな専制君主とする官僚的全体主義国家化をもたらすだけだったろう、とも断じている。
この点に関していえば、ドイッチャーの「トロツキー伝」は、トロツキーの資質に帰していただけのように思える。
政治的な「裏工作」をする才覚や欲求がトロツキーには欠けていた、と(記憶に頼っているので、これはわたしの浅読みかもしれないが)。
ともあれ、セルジュの明晰な(明晰すぎる)予測が、彼に、彼が唯一パーソナルな親愛の情を隠さなかったトロツキーとの訣別を強いたのだった。
それは、反スターリン主義の旗印が、そのまま規模を縮小した小「スターリン主義」の再生産につながっていく、という20世紀(いまもまだ)の茶番的な思想悲劇の根底にあるのかもしれない。

『トゥラエフ事件』の翻訳は出ないのだろうか。
それと、トロツキーとの往復書簡集も読みたいのである。
どちらも、英語版はあるので、なんとかなりそうといえば、なんとかなるけれど。
ソンタグが紹介している文献目録のサイトには、アクセスできなかった。

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