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セルジュ覚書3

セルジュ覚書3


気になって、『作家と党派 アメリカにおける文学的ラディカリズムの歴史』『Writer on the Left』を調べなおしてみると、後者に、セルジュの名前は、一箇所だけ記されていた。シローネやケストラーなどと一括りだったが。
『作家と党派』には、1940年、ドワイト・マクドナルドらの雑誌『パーティザン・レヴュー』が、ヨーロッパの反ファシズム作家への救援基金を呼びかけた、と記録されている。セルジュは、この基金の援助を受けた一人だった(翻訳での人名表記は「セルゲ」となっていたが)。また、同誌は、「セルゲ」の作品にもページをさいている(188p)。セルジュのアメリカ亡命のプランもあったらしいが、実現していない。反スターリンの立場が受け入れられなかったのだ。
わたしは『北米探偵小説論』のリサーチのさいに、たしかにこの名前と遭遇していたのだった。

スーザン・ソンタグのセルジュ論を読んで驚いたことは、セルジュが途方もない多作家だったという事実だ。書きに書いた。いったいどんな寸暇をこしらえて書いたのか? 公刊された(歿後であっても)本、ソ連国家によって抹殺されてしまった草稿、それら以外にも、おびただしい雑誌発表があるという。
つまり、資料として捜し出せる条件下にあるのだ。
なお、ソンタグによれば、アメリカでのセルジュ紹介は1953年の『パーティザン・レヴュー』だった。
ソンタグは「最初にセルジュの抜粋が紹介された」としているが、これは、『作家と党派』の記述と矛盾する。
調べきれない事柄なので、保留にしておく。だが、その紹介文の筆者に驚いた。
チュスワフ・ミウォシュ、亡命ポーランド人、後に1000ページにわたる『ポーランド文学史』を書いた人物だ。
この大著を、わたしは『魂と罪責』を書くさいに役立てたことがある。
『パーティザン・レヴュー』とヴィクトル・セルジュとチュスワフ・ミウォシュと……。
この三者が、わたしの二冊本のなかで、隠れた連関をつくっていた。
これは偶然の作用なのか。いや、偶然ではありえない。

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