×

セルジュ覚書2

セルジュ覚書2

スーザン・ソンタグ「消し尽くされぬもの ヴィクトル・セルジュをめぐって」を読んだ。
元は、「The Case Of Comrade Tulayev」 の序文。

ソンタグは「セルジュが読まれないのは何故か」と書き出し、その理由を抗議するような文体で書いている。
真に読まれるべき作家が軽視されるのは何故なのか。

 《20世紀の倫理上、文学上の英雄たちのなかでももっとも胸に迫ってくる一人、ヴィクトル・セルジュ。彼が闇に隠されているのはなぜか。》

ここで、ソンタグが選んでいるのは、否定的反語、二重否定の論法だ。
既視感にとらわれる。セルジュについて書く者の多くが、この二重否定の論理を自然に選びとるようなのだ。
そして、気づく。否定的反語は、ほかならぬセルジュ自身に特有のスタイルなのだった。

彼の文学が、この時代に招請される根源的な正当性は、大きく二点あると思う。
一、革命を永続的に批判する批判的マルクス主義
一、死者とともにある共同体〈コミューン〉の観念

二つは、言葉はちがっても、まったく同じことかもしれない。
ソンタグは《セルジュの小説はすべて死におおいつくされている》と指摘している。そのとおりなのだが、この指摘の底に隠れるある「恐怖感」を、多くのセルジュ読者はいだくだろう。
彼の描く函数的人物は、無名戦士としておびただしく死んでいく。
十月革命の最初の一年、ペトログラードの戦闘を記録した二作品、『革命元年』と『勝ち取った街』は、その犠牲にみちあふれている。
だが、そこに個人的な感傷はいっさいない。
批判的マルクス主義が真に批判的でありつづけるには、彼は負けつづけねばならない。
敗北しない批判的マルクス主義は批判的マルクス主義ではないのだ。――これは、まさしくセルジュの論法だ。
敗北者のイメージは市民的感性から測ると、とてつもなく冥い。
だが、彼はメキシコの地にあって、その地にある悦びを描く新たな作品の構想にとらわれていたのだ。
個人の運命・境遇の悲惨さ。それがどうしたというのか。
彼は人間存在のなかの一つの部分、一つの函数にすぎない。
そのことによって、消尽されていった無名戦士たちと〈共同〉できるのだ。

個を捨てるという「危険な」戦略を採ることによって、セルジュはソ連型の全体主義に抵抗しようと試みた。
この逆説的反語は、いまこの時代にあって、いっそう新しい。

投稿日:

コメントを送信