ル・カレの新作
『スパイはいまも謀略の地に』AGENT RUNNING IN THE FIELD ジョン・ル・カレ(二〇一八)
ル・カレの最新作『スパイはいまも謀略の地に』。エージェント(作家)は今なお、フィールド(スパイ小説の現場)に立ちつづける。
この稿は、そのつど「書き足していく必要の生じる項目」の一つになる。
体裁としては、『NADS21』「G・06」(1070-1077P)の余白につづく。
ということは、ル・カレが次の新作でも「ランニング・イン・ザ・フィールド」であることを示せば、何年後になるかわからないが、こちらのページも閉じられないだろう。
彼は、またしても、時事問題への鋭利なきりこみと伝統的スパイ小説との見事な融合を実現させた。今回の柱は、ブレグジット(イギリスのEU離脱)と「トランプ=プーチン秘密同盟」への警告だ。
今回のル・カレは、驚くほどに読みやすい。主人公スパイの一人称。ほとんど時系列にしたがって語られる。副人物たちに関しては、作者視点での安定した人物紹介をはさむ。後半のかなり押し迫ったところで、主人公が彼の妻に関して「これまで、彼女の描写が控えめだった」ことの弁明を挿入する手法など、やはり名人芸の貫禄がある。例によって、盗聴テープの会話シーンも出てくるが、使い方はごくストレートだ。
時事問題でいえばーー
《あれはプーチンの便所掃除人だ》(173P)
《あれは生まれも育ちもギャングのボスだ》(271P)
(あれとは、トランプを指す)
そして、その「同盟」は、一九三九年の独ソ不可侵条約になぞらえられさえする。歴史が愚かしくも「繰り返す」恐怖。
これらは、登場人物の口を介して語られるが、作家の本音と読んでも、誤差は生じない。
主人公の上司であるカリスマ的スパイ・マスターは、肝腎の政治家たちの右往左往ぶりを嘆く。諜報部の方針もまったく定まらないからだ。この件は、EU離脱に到るまでのイギリスの政争の不透明さから推してみても、容易に了解できる。
主人公の立ち位置は、どこか、ブライアン・フリーマントルのチャーリー・マフィンを思わせるところもある。組織に飼い殺されようとする「個」が逆転勝利に賭けようとするパターンも似ている。しかし、この主人公は、ずっと繊細だ。繊細さが極限化されて、ラストの驚くべき「解放」に爆発する。
スパイとは、故国を裏切り、他国に売りわたす存在だ。本作のスパイもその人間像の枠内にある。しかし彼は新しいタイプだ。体制内にあり、体制への根本的不信から「裏切り」に転じる。その動機は、むしろ「愛国」の純粋さにある。作者は、その純粋ゆえの「誤ち」を、繊細きわまる中間管理職スパイ・マスターの視点を介して、じつに説得的に描ききった。
ル・カレの次作はたぶん、「コロナ後世界」に関わってくるはずだ。
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